入学・卒業

 3月を迎えて、卒業式、入学式と子どもたちの成長を覚える喜びの季節となりました。当教会のこひつじ園も卒園の準備で忙しくしています。教会はそれとともに復活祭を迎え、皆と一緒に喜び祝おうとしています。
 
 旧約聖書の世界であるパレスチナでは、季節は夏と冬の繰り返しと言えるかもしれません。地中海気候の影響で、夏は乾燥で、冬に雨が降ります。「地の続く限り、種蒔きも刈りいれも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」(創世記8章22節)。この季節の循環は神が人間に必要なものを備えるためであるといえます。

 旧約聖書の申命記11章:14節に、「 わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある」という言葉がありますが、ここに「秋」とか「春」と訳されていますが、本来の意味は「初めの」と「後の」という言葉で、旧約聖書には「秋」と「春」という言葉はないのです。「初めの雨」というのは10月~11月ごろに降る雨で、「後の雨」というのは3月~4月ごろに降る雨です。このように旧約聖書は「雨」ということを中心に季節を語っているところがあります。即ち「冬」を中心に考えているのです。なぜかというと、冬に雨が降り、収穫が得られるからです。日本人と感覚が違います。

 だからと言って、秋と春がないわけではなく、短いがあります。現代ヘブライ語では春のことを「アビブ」というのだそうだが、もともとは3月か4月頃の月を表す言葉のようだ。その頃に「過ぎ越しの祭り」というのがあります。これは昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷とされていたその地から脱出したことを記念した祭りです。イスラエルではこの春から新しい年が始まります。この時期を表す言葉に「リトゥシェヴァト ハシャナー」というヘブライ語があります。「春」と訳されることもありますが、「年の立ち返り」という意味で、日本で言えば「新春」ということです。でも、この「過ぎ越しの祭り」が彼らの民族としての原点なのです。その祝いから年が始まります。

 そして「秋の雨」、10月~11月ごろには「仮庵の祭り」というのがあります。これは収穫の時期です。詩編4編8節「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください」とあります。収穫期の喜びは、心の満たし、魂の喜びを求めています。

 旧約聖書の人々は冬を中心に、雨を中心に自分たちの生活を考えています。そこには初めがあり終わりがあります。そこには芽生えの春があり、喜びの収穫である秋もあります。その生活の営みのもとに信仰の根を降ろしました。極めて短いが大切な春と秋があります。今の私たちにとって、命の芽生えである春には復活祭があります。それは希望に始まり、秋は、人生を収穫していく季節でもあります。人生には初めがあり終われがあります。旧約聖書の人々はそのことを明確に見定めながら生きたのです。入学と卒業、そんなことを考えてしまいます。
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写真は、シクラメンの花です。教会の玄関で昨年の冬から置かれていて、春に至りました。

投稿者: 日時: 2008年03月11日(火) 13:51