2011年01月のアーカイブ

男の料理

男の料理のレシピの公開で~す。
年に二回ほどですが、私たちの教会の壮年の方々が、楽しく作りおいしく食べています。
今回は、聖書の中の食べ物を現代風に再現してみました。

指導は、河南恒子先生(元・夙川短期大学教授・東鳴尾教会員)

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ひよこ豆と仔羊肉のカレー
材料(五人分)
ラム(300g) プレーンヨーグルト(200g) 玉葱(2個) ひよこ豆(水煮缶詰 120g)
水(適量) 固形スープの素(2個) アーモンド(8粒) カルダモン(2個)
りんご(1/2個) 植物油(大さじ4) 塩(小さじ1) トマト(1個)
A レットチリペッパー(小さじ1)
  ガラムマサラ(小さじ1) しょうが(おろしたもの 小さじ1)
  にんにく(おろしたもの 大さじ1)
  クローブ(2本)
  ターメリック(小さじ2)
  コリアンダー(パウダー 小さじ1)

作り方
①マトンは一口大に切って、ヨーグルトに1時間ほど漬け込む。鍋に漬け汁ごと移し、ひたひたの水と固形スープの素を加え、肉が常に水をかぶっているよう、少量ずつ水を加えながら、弱火で1時間ほど煮る。
②アーモンドとカルダモンは軽くつぶしておく。
③玉葱は薄切りにし、油できつね色になるまで炒め。Aを加えてざっと混ぜ、中火で炒める。
④③に①を加えて軽く炒め、②とざく切りにしたトマト、すりおろしたりんご、ひよこ豆を加えてとろみが出るまで弱火で煮込み、塩で味を調える。

種なしパン(チャパティ)
材料(作りやすい量)
全粒粉(130g) 塩(小さじ1/2弱) 油(植物油 大さじ1) ぬるま湯(70~80mℓ・粉の状態で調整) 薄力粉(適量)  溶かしバター(適量)

作り方
①粉と塩を混ぜ、振るいにかけてボウルに入れておく。
②油を加え、手でしごくようにして粉に油を馴染ませる。
③ぬるま湯を少しずつ加えてこねる。
④ボウルから取り出し、手のひらを使って10分ほどこねる。
⑤ボウルに戻し、ラップフィルムをかけて、生地を室温で15分ほどねかせる。
⑥再び5分ほど、生地がなめらかになるまでこねる。
⑦手のひらに油をつけ、生地を5~6等分に丸め、両手のひらでつぶし、直径15~18㎝の円に伸ばす。
⑧熱したフライパンで茶色いスポットができるまで両面を焼き、表面に好みで溶かしバターを薄く塗る。

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ナン
材料
小麦粉(300g 21/2カップ) ペーキングパウダー(小さじ1) 砂糖(小さじ2)
牛乳(大さじ4) プレーンヨーグルト(大さじ1) 卵(1個) バター(小さじ5)
塩(小さじ1)

作り方
①小麦粉、塩、ペーキングパウダーを合わせておく。
②ボウルに砂糖、牛乳、ヨーグルト、卵をよく混ぜ、①に少しずつ加えながらこねる。
 少量の水(分量外)を加えながら、耳たぶより少し柔らかい硬さにする。ラップをかけ10分ほどねかせる。
③②に溶かしバターを加えてよくこね、ラップをかけて、さらに2時間ほどねかす。
④③を4~6等分し、丸めてから平たく伸ばし、オーブントースターまたは魚焼き網で5~6分焼く。

投稿者: 日時: 13:52 |

人権

新年おめでとうございます

今、礼拝でルカ伝を読んでいるのですが、イエスの裁判のところです。大祭司カテアファのもとでの予備審理、そして最高法院での宗教裁判、そしてピラトのもとで刑執行のために正式に裁こうとするわけです。この裁判は明確な意図をもって行われていきます。

 “冤罪”ということがありますが、まさにイエスは冤罪であった。冤罪を生まないための鉄則があります。“疑わしきは被告人の利益に”ということは。このイエスの裁判の場合は、そんなの完全に無視です。ルカ伝によるとピラトは三回、イエスに罪を認めることができないという表現が繰り返されます。その記述によってルカはイエスの無罪性を語ろうとしています。

 松本サリン事件、もう16年前の話ですが、しかしこの事件は冤罪の恐ろしさを教えてくれる一つの例とも言えます。河野さんがい言われています、「地下鉄サリン事件被害者の親戚の方が私に手紙を送ってきて『罪を認めろ』と詰め寄りました。そして何より冤罪事件の当事者が苦しむのは、法的に無罪が証明されても世間の人々にとっては『検察が証拠を揃えられなかっただけで怪しいのは間違いない。何かあるに違いない』という思いです。これは報道によって形成されてしまいます。そしてその疑惑は生涯晴れることなくグレーのままなのです」。とです。

 人の言葉によって虚像が造り上げられてしまい、それがあたかも真実かであるかのように独り歩きしてしまうことです。いったん人の心に焼き付けられたイメージはなかなかきえないものです。それをマスコミが作ってしまったということになりますが、取り返しがつかない過ちを犯してしまったのである。イエスの最高法院での裁き、人の証言によって死に当たるものとして訴えられていきます。

 イエスの裁判を考えると、まさにこの裁判のゆえに、そしてその結果としての十字架の死にゆえに、福音が私たちのものとなりました。その福音が冤罪を生むような世に対して一つのメッセージを持っています。それは“人権”ということです。福音の意味しているところは、その人自身が愛の対象とされるということです。その人の価値によらないのです。品物は価値によって判断されます。お皿でしたら、料理をのせるという価値があります。あるいは美術品としての価値を持つ場合もあります。そのために金銭的な価値も含みますが、しかし、それが粉々に砕けたら、道具としての価値も、美術品としての価値も失われて、ゴミ箱に捨てられることになります。それが品物ということです。

 しかし人間は品物ではありません。たとえ世に無価値な人間だと認められようとも、神によって愛の対象として認められるのです。確かに人間は不完全で掛け目を負っています。でもそれを含めて愛の対象として取り扱われるのです。それが福音なのです。人間を人格として扱うのです。ですから福音は“人権”を真に尊ぶことを教えてくれます。

 私たちは気軽に“あの人はこうだ”“この人はこうだ”ときめつけてしまうことがあります。また人のそのような言葉をそのまま鵜呑みにして、さらにそれを言いふらしてしまいます。そのような人の言葉が虚像を作り上げ、それがあたかも真実な人の姿と思われていく。それも一つの裁きです。

 ルカはピラトの証言によってイエスの無罪性を主張しています。そのイエスが人々の言葉によって十字架へと追いやられていきます。この出来事は、今の私たちに倫理的なメッセージとして他者の人権を尊ぶことを教えています。軽々しく人のうわさをするものではありません。根拠もなく人の批評を簡単にするものではありません。世の吹聴に簡単に乗っかってはいけません。そうでないと我々もイエスを十字架に追いやった民衆の側に立つことになってしまいます。

 いや、そんな人間の罪の赦しのために死なれたと言えます。朝日新聞で“孤族の国”という連載記事がありましたが、人が人として温かく扱われない時代構造になってきているだけに、人権がいっそう尊重されなければならなない時代だと思います。

投稿者: 日時: 00:36 |