2011年03月のアーカイブ

聞く姿勢を

サムエル上3章1節~4章1節a
3:1 少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。
3:2 ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。
3:3 まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。
3:4 主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、
3:5 エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
3:6 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。
3:7 サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。
3:8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、
3:9 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
3:10 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
3:11 主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。
3:12 その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。
3:13 わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。
3:14 わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」
3:15 サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。
3:16 エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」
3:17 エリは言った。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」
3:18 サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」
3:19 サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。
3:20 ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。
3:21 主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。
4:1 サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。

創世記27章1節「イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。そこで上の息子のエサウを呼び寄せて、『息子よ』と言った。エサウが、『はい』と答えると、」
これに続く物語は、イサクは肉を食べたいということで、エサウにそれを依頼するのですが、それを聞いていた母親がヤコブにエサウの格好をさせて、肉の料理を持たせて行かせ、イサクをだましてヤコブが長子の祝福を奪ってしまうという出来事が起こり、家庭内騒動が起こってしまいます。

 このイサクのような老いたがゆえの障害があったと思われます。それはサムエルが神の箱のそばで寝ていたということで示されているように思います。おそらく本来は聖所で祭司が寝るべきものであったのでしょう。それをサムエルが代わりにおこなっていたのです。どうして祭司が聖所で眠らなければならなかったのか不明ですけれども、神の箱の番をする必要があったのか、それとも神からの語りかけを聞くためであったのか、あるいは灯明を消さないためであったのか、わかりませんけれども、ともかくもエリは聖所で眠るほどの体力がなかったのではないかと思います。ですからそういう意味でもそろそろ彼は祭司職を退くべき時期であったと思われます。

 老いて退くということは一抹の寂しさが伴うものですが、しかしその年齢に相応しい生き方というものがあり、いつまでも最前線でやれるものではない。時が来れば後の者に譲り、背後から祈りをもって支えていくものであります。ここで長い間、神の語りかけがなかったことが述べられていますが、老いたがゆえの弱さのためにエリ家に問題が起こり、それゆえに神の語りかけが長い間なかったのかも知れません。ですから退くべき時に退くべきであります。その時を逸してはならないと思います。その事が神の摂理の中で行われようとしているのではないかと思います。願わくはその時を自ら判断できる信仰を持ちたいものです。

 ある夜に神からの語りかけがありました。それはただ名前を呼ぶだけでありました。サムエルにはそれが分からず、やっと四回目でサムエルはエリに指示されたように返事をするのです。ここで「聞く」と言われているのは、「聞く用意が出来ている」という意味の言葉です。神の言葉を聞く事が出来る準備というものが必要だということです。御言葉というのが聞かれる時というのがあるように思います。そのようにその人が整えられるということがあるでしょう。長い求道生活の末に洗礼を受けるということがあります。人が御言葉を聞けるために整えられる必要があるのだと思います。

 神がサムエルのところにやってきます。下記の聖書個所は出エジプト記ですが、この10節以下の神のサムエルへの語りかけと比較してみると、同じように神がやってくるということについては、やや控えめな形で描かれているように思います。むしろ「語る」というところに力点が置かれている。創世記の初めに神は言葉をもって世界を創造されたといわれており、またヨハネ伝では“言葉”が神であったとされています。その言葉がイエスとして現れたのです。

33:1 主はモーセに仰せになった。「さあ、あなたも、あなたがエジプトの国から導き上った民も、ここをたって、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『あなたの子孫にそれを与える』と言った土地に上りなさい。
33:2 わたしは、使いをあなたに先立って遣わし、カナン人、アモリ人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。
33:3 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。あなたはかたくなな民である。」
33:4 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、一人も飾りを身に着けなかった。
33:5 主がモーセに、「イスラエルの人々に告げなさい。『あなたたちはかたくなな民である。わたしがひとときでも、あなたの間にあって上るならば、あなたを滅ぼしてしまうかもしれない。直ちに、身に着けている飾りを取り去りなさい。そうすれば、わたしはあなたをどのようにするか考えよう』」と言われたので、
33:6 イスラエルの人々は、ホレブ山をたって後、飾りをはずした。

 ですから“聞く”ということに心しなければならないと思います。
ここでサムエルが聞くのはエリ家の裁きです。そして一部始終をエリに伝えるのです。その神の言葉を聞いたエリも実に見事だと言わなければなりません。3章18節「サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。『それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。』」。エリは免れない神の裁きを受けます。それを甘んじて受け止めていくのです。このエリの表現は形式的に言えばオリエントの流儀にそくしているのですが、でもその姿は謙虚に神の意志を受け止めていく人の姿があります。ゲッセマネのイエスの祈り、杯が取り去られるのではなく、神の御心が行われることを祈られたイエス、それに通じるものがあるのかも知れません。エリが自分が去らなければならない者であることを覚悟したことでしょう。

 このエリの姿を見ます時に、私たちは信仰者として“聞くべきことが聞ける”ために整えられる必要を感じます。ここに信仰者としての成長があると思います。御言葉は必ずしも自分にとって都合がいいもとは限りません。でもそれが聞ける信仰の姿勢というのが養われて行く必要があります。サムエルがエリの指示に従って9節で「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えたその言葉がそれを示しているように思います。

 サムエルはそういうことも含めて成長して行きます。一人前の預言者として立てられていきます。それは「主は彼と共におられ」という御言葉で示されています。そのサムエルに神の御言葉が託されて行きます。彼の名声は「ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々」に示されました。聖所ダンから聖所ベエル・シェバ、その中でシロが中心とされます。それは神の箱があったからではなく、そのような形式的なことではなく、神の言葉を聞き、それを語る者がそこにいたからです。4章1節の「サムエルの言葉は全イスラエルに及んだ。」という表現は、しだいににシロが聖所としての役目を失って行くのを示しているのですが、エリ家の影響も否めないのですが、しかしそこには御言葉中心性というものが根底にあると思われます。

投稿者: 日時: 12:19 |