人権

新年おめでとうございます

今、礼拝でルカ伝を読んでいるのですが、イエスの裁判のところです。大祭司カテアファのもとでの予備審理、そして最高法院での宗教裁判、そしてピラトのもとで刑執行のために正式に裁こうとするわけです。この裁判は明確な意図をもって行われていきます。

 “冤罪”ということがありますが、まさにイエスは冤罪であった。冤罪を生まないための鉄則があります。“疑わしきは被告人の利益に”ということは。このイエスの裁判の場合は、そんなの完全に無視です。ルカ伝によるとピラトは三回、イエスに罪を認めることができないという表現が繰り返されます。その記述によってルカはイエスの無罪性を語ろうとしています。

 松本サリン事件、もう16年前の話ですが、しかしこの事件は冤罪の恐ろしさを教えてくれる一つの例とも言えます。河野さんがい言われています、「地下鉄サリン事件被害者の親戚の方が私に手紙を送ってきて『罪を認めろ』と詰め寄りました。そして何より冤罪事件の当事者が苦しむのは、法的に無罪が証明されても世間の人々にとっては『検察が証拠を揃えられなかっただけで怪しいのは間違いない。何かあるに違いない』という思いです。これは報道によって形成されてしまいます。そしてその疑惑は生涯晴れることなくグレーのままなのです」。とです。

 人の言葉によって虚像が造り上げられてしまい、それがあたかも真実かであるかのように独り歩きしてしまうことです。いったん人の心に焼き付けられたイメージはなかなかきえないものです。それをマスコミが作ってしまったということになりますが、取り返しがつかない過ちを犯してしまったのである。イエスの最高法院での裁き、人の証言によって死に当たるものとして訴えられていきます。

 イエスの裁判を考えると、まさにこの裁判のゆえに、そしてその結果としての十字架の死にゆえに、福音が私たちのものとなりました。その福音が冤罪を生むような世に対して一つのメッセージを持っています。それは“人権”ということです。福音の意味しているところは、その人自身が愛の対象とされるということです。その人の価値によらないのです。品物は価値によって判断されます。お皿でしたら、料理をのせるという価値があります。あるいは美術品としての価値を持つ場合もあります。そのために金銭的な価値も含みますが、しかし、それが粉々に砕けたら、道具としての価値も、美術品としての価値も失われて、ゴミ箱に捨てられることになります。それが品物ということです。

 しかし人間は品物ではありません。たとえ世に無価値な人間だと認められようとも、神によって愛の対象として認められるのです。確かに人間は不完全で掛け目を負っています。でもそれを含めて愛の対象として取り扱われるのです。それが福音なのです。人間を人格として扱うのです。ですから福音は“人権”を真に尊ぶことを教えてくれます。

 私たちは気軽に“あの人はこうだ”“この人はこうだ”ときめつけてしまうことがあります。また人のそのような言葉をそのまま鵜呑みにして、さらにそれを言いふらしてしまいます。そのような人の言葉が虚像を作り上げ、それがあたかも真実な人の姿と思われていく。それも一つの裁きです。

 ルカはピラトの証言によってイエスの無罪性を主張しています。そのイエスが人々の言葉によって十字架へと追いやられていきます。この出来事は、今の私たちに倫理的なメッセージとして他者の人権を尊ぶことを教えています。軽々しく人のうわさをするものではありません。根拠もなく人の批評を簡単にするものではありません。世の吹聴に簡単に乗っかってはいけません。そうでないと我々もイエスを十字架に追いやった民衆の側に立つことになってしまいます。

 いや、そんな人間の罪の赦しのために死なれたと言えます。朝日新聞で“孤族の国”という連載記事がありましたが、人が人として温かく扱われない時代構造になってきているだけに、人権がいっそう尊重されなければならなない時代だと思います。

投稿者: 日時: 2011年01月05日(水) 00:36