2010年11月のアーカイブ

汝の死を覚えよ

旧約聖書のコヘレトの言葉
7:1 名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。
7:2 弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。
7:3 悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。
7:4 賢者の心は弔いの家に/愚者の心は快楽の家に。

 今日のコヘレトの言葉で驚かされるのが1節の「名声」と「死」が結合されていることです。どうしてこの二つがつながるのか、むしろ正反対のことで当然の事柄ではありません。

 「名声」とありまのすが、コヘレトの時代、ソロモンの時代と考えますと、身分制度もはっきりしてきているわけで、王様の子は王様、貴族の子は貴族に、農夫は農夫であります。ですから“生まれた家柄”というのがその人の名声と深く繋がります。努力すれば出世するというのはコヘレトの時代ではなかなか難しいでしょう。日本でも江戸時代に士農工商の身分制度が確立していきますが、そうしますと、武家に生まれた子は武士となりますし、商人の子は商人になります。そのように名声は生まれた時に決まります。また、その“名声”というのは、その人のアイデンティティーとも関係しています。例えば、創世記5章28節~29節「レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。『彼は、“主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう”と言って、その子をノア(慰め)と名付けた。』」といわれており、ノアという人間の存在の意義が名前によって定義づけられています。名前にはこれらの意味が含まれております。

 それが「香油にまさる」のです。箴言22章1節で「名誉は多くの富よりも望ましく」と言われているのですが、名声は富に勝り、富よりも長続きするという考え方があったと思われます。それを「香油にまさる」といって、香油の香り以上に名前が残ることを表現しているのでしょう。ともかくも“生きる”ということが言われているのですが、それに対して、コヘレトは、“生まれる日”よりも“死ぬ日”に価値を置いているのです。

 でも、コヘレトはそのような“名声”も死ぬ日まで続かないこと見ています。むしろ死ぬ日こそが、生ではなく死こそが人間の名声とアイデンティティーを決めるということです。それは「アダム」という言葉が人間全体の方向性を示していると言えます。神の御前での無力さ、即ち死ぬべき存在であることを暗示しているのです。ですから人間にとって死こそが重要となってくるのです。ですから「弔いの家に行くのは/酒宴の家に行くのにまさる」とか「悩みは笑いにまさる」という言葉へと繋がっていくのです。この考え方に似た表現が箴言にもあります。箴言14章13節「笑っていても心の痛むことがあり/喜びが悲しみに終ることもある。」と語られています。これは“喜び”のはかなさを表現しているのですが、コヘレトは、それ以上に悲しみを歓迎しています。何か暗い人間だと思うかも知れませんが、コヘレトは人間とは何か、人生とは何かをよく知っているからこその言葉だと思います。祝宴の歌よりも悲しみの葬送歌のほうが、人生にとって深遠なものだと語っているのです。

 なぜ、コヘレトにとって死がまさるのか二つの理由が考えられます。一つは人生の終わりは死ということです。もう一つは、真の喜びは悲しみを通ってのみ見出されるということです。言い換えれば、真の喜びは悲しみに影響されないということでしょうか。ここにコヘレトのメッセージがあります。人間は有限な者です。有限な者として生きているのです。ですから逃れられない死の現実があり、それが人生の出発点なのです。これがコヘレトの人生の捉え方なので、死こそが、偽りのない人生へと人間を導くのです。ですからコヘレトからすると幸福な人生を送りたいならば、死を抜きにして考えられないのです。死を受容していかなければ、できなければ幸福な人生はないのです。ですから祝宴の歌よりも葬送歌のほうに価値があるのです。それを人間は見ようとしないでごまかしているのです。コヘレトから言わせれば多くの人の人生はごまかしなのです。死を、悲しみを否定しての人生はあり得ないのです。死から喜びの歌が、悲しみから喜びが生まれなければ、その喜びは偽物なのです。これがコヘレトの主張です。

 ここに、真の喜びの意味があります。コヘレトにとって“喜び”は苦しみから逃れさせる麻薬ではないのです。むしろ灰から不死鳥のように甦ってくるもので、真の喜びは悲しみから生まれるのです。それを3節「顔が曇るにつれて心は安らぐ」と表現しています。この喜びが人生に活気をもたらすのです。自らの有限性に直面しながらも、喜びを見出す、真の喜びは祝宴の中にあるのではなく、葛藤の中に見出されるのです。4節「賢者の心は弔いの家に/愚者の心は快楽の家に。」と言われています。

 この「賢者の心」と「愚者の心」の対比はお分かりだと思います。人生の終焉に直面してこそ人の心は養われます。祝宴の家は確かな人生の現実、死を覆い隠します。人生の終焉に直面するからこそ、コヘレトの12章1節以下の言葉が生まれてくるのです。ですから「弔いの家」にこそ人生にとって重要なカギが隠されているのです。これは奇妙なことではなく、終末医療のホスビス病棟で働いている方々の言葉を聞けばわかるのではないでしょうか。そこで人生というものが真摯に受け止められ、喜びと絶望が分かちがたく結びついているのです。

 12章1節「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と/言う年齢にならないうちに。」。この言葉は祝宴の席では生まれない。人生の終焉に直面してこそ生まれてくる言葉です。それはキリスト信仰にもつながります。キリストを信じることは死に直面することです。なぜなら復活の希望は死を無視しては生まれないのです。死に基づいているのです。人生は死の支配されているのだということをを受け入れてこそキリスト信仰が分かるのです。死を意味するバプテスマこそ信仰の旅の始まりと言えます。そうすればキリスト者は、キリストの死による勝利を忘れることはないでしょう。
ヨハネ12章24節~25節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

投稿者: 日時: 22:07 |