裁判員制度が始まる

 この日曜日に、ある壮年の方から、“いよいよ裁判員制度が始まるけれども私たちはどうしたらいいのでしょうね”と聞かれましたが、これは単純な問題ではないように思えます。

 ローマ書13:1に「 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」と書かれています。ここでは権威というものが神のよって立てられているのだ、ということが述べられており、山内六郎氏は著書「信仰の手引き」で、「ルターの小教理問答書」を解説する中で、“統治者”に従うべきことを語っています。そういう意味では「裁判員制度」に従うべきだと言えます。上記のローマ書の御言葉は国家の一定の秩序というものを認めている言葉でもあるように思えます。無批判的に従うというのはいけないが、御言葉の許される範囲に置いて従うべきであろう。

 ただ、次ぎに問題になるのは「裁く」という問題です。人が人を裁けるのかということです。ヤコブ4:11「 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。」とあり、またルカ6:37 「『人を裁くな、そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。』」と、聖書で人を裁くことを戒めています。しかしここで語られている「裁くな」と言う御言葉は、ヤコブ書では「兄弟」に呼びかけられていますように、信仰を共にする仲間でのことだと理解することが出来ます。あるいは、さらに広めて人間同士とも捉えることができます。その人間の間で裁き合ってはいけないといわれているとも読めます。ルカ伝も同じようなことだと思います。いずれにしても、国家の秩序を保つ上での「裁き」のことが言われているわけではありません。ですから裁判はこの範疇に入らないだろうと思います。「律法」を神が設けられたというところには、「秩序」を保つ神であるということができます。

 そこで大きな問題なのが、裁判員は刑事裁判に関わりますので、「死刑判決」にも関わることが起こりうるということです。これはどうなのだろうか。出エジプト記20章13節に“あなたは殺してはならない”という十戒の戒めがあります。山内六郎氏は、裁判により死刑の宣告や執行はこの戒めに反しないと述べています。私もそう思うのですが、しかし?もつくのです。この「殺す」という言葉、ヘブライ語で「ラーツァハ」と言うが、様々に使われています。意図的な殺人を示唆する言葉として、あるいは意図的でない殺人の場合もあり、また民数記35章30節では「人を殺した者については、必ず複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない。しかし、一人の証人の証言のみで人を死に至らせてはならない。」と、死刑宣告をされた死刑を指す場合もあるようです。

 ともかくも“あなたは殺してはならない”という戒めの根底には、命は神に属するものというのがあり、その人間の命を奪うのは、神の代理となって行う行為だということを思い起させます。創世記9章6節「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」。神の創造における意図は、命は奪ってはならない、ということでしょう。ですから人間は神ではないのだから、命を自分勝手にしてはいけないのです。命をどう扱うか、それができるのは神のみであると言えます。人間の権威で命を奪ってはいけいないのです。

 ただ、十戒のこの戒めが全ての事柄において適用されるのか、ということがあります。出エジプト記21:12~17「 人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。」と語られています。この戒めは、神の創造の秩序を侵害した場合のことであります。ですから人間の権威で殺してはならないのであって、人間は神の媒体なのです。これらはイスラエルに与えられた戒めであるが、神の意志をどう識別するのか、それが問題になります。

 イエスは、マタイ伝5章21節以下で次のように述べています。「『あなたがたも聞いているとおり、昔の人は“殺すな。人を殺した者は裁きを受ける”と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に“ばか”と言う者は、最高法院に引き渡され、“愚か者”と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。』」とイエスは「和解」を求めています。神との和解が求められる。先にあげた旧約聖書での戒めの根底には、神の創造の秩序の回復という願いがあります。その神の意図を私たちは実現していかなければならないのではないかと思います。

 筆者は、「死刑」については否定的であり、むしろ終身刑のようなものを設けていく必要があるように思います。人は自らの罪を深く思い、その悔い改めが求められるのです。ともかく私たちは裁判員に選ばれる可能性はあります。恐らく裁判官と共に裁判員が合議して刑が決定されていくのでしょう。その際、自らの信条にしたがって意見を述べなければならない。その時には、人が人を裁くのです。その人の人生に私たちの判断が大きく影響するのですから、本当に謙虚に私たちは対応しなければならないでしょう。

 裁判員の選考が始まっているようで、断る方が多いと聞いています。自らの信条で断れるかどうかは知りませんが、でも、私たちはどこに立っているのかがとよれるような気がします。私はこの壮年の方の問いかけについて、十分に熟慮して書いたものではなく、片手間に書いたものですので、この文章は不十分なものです。けれども、一人の信徒であったとしても、問題意識をもって御言葉に照らし合わせながら考えて欲しいと思いますし、その切っ掛けになればいいと思っています。そのような信仰の営みの中で福音は日本に根ざしていくのだろうと思います。でも、単純な疑問ですが、こんな重荷を一市民に負わすべきなのかとも思う。

投稿者: 日時: 2008年12月04日(木) 22:38