2009年01月のアーカイブ

メシア待望

 もう一月も終わろうとしています。今年に入ってから、地域のことや保護司会関係や、それに葬儀、教会総会の準備など、様々なことがあり忙しくて、なかなかコラムを書くことができませんでした。

 新年に、地域の“餅つき大会”があり、つき手として出ました。 “よし、やったろう”という気持でいったのですが、今まで長年“餅つき大会”に関わってこられた方々は、私よりも高齢なのですが、お元気に頑張っておられます。私の出る幕などはないほどですが、しかし、ある方が代わって欲しいしぐさをされたので、そばにいた私と代わりました。

 そのとき感じたことですが、代わるタイミングというのがあるということです。若い方々も出ておられましたが、なかなか一人“ひと臼”をつくということはしんどいことです。どこかで誰かに代わって餅をついていきます。押しのけてもいけないし、遠慮しすぎてもいけない、時を見計らって代わってもらい、また代わってあげる。そうでないと続かないものです。私の身の引き際もそうでありたい。

 米国で新大統領オバマ氏が就任しました。その就任式に二百万人の人々が出たそうです。その人気ぶりがうかがえます。そこには経済危機があります。ブッシュ氏がヘリコプターで飛び立ちとき、人々はブッシュに向かって“ヘイ ヘイ ヘイ グッパイ”と言って、おちょくられたそうですが、不人気なブッシュ氏である。

 よく大恐慌時代と、今とを重ね合わせて語られますが、あの時代に、やはり人々に歓迎されて迎えられたのがヒトラーでありました。誤解しないでほしいのですが、私はオバマ氏とヒトラーを重ねているのではなくて、民衆は、社会が危機的な状況を迎えると救世主を期待するものです。大恐慌時代は、人々は見誤ってしまった。しかし皮肉なことに、戦争が引き起こされて経済危機を米国は脱出できたのです。しかし民衆と言うものは勝手なもので、オバマ氏が今後どのような政策を取り、成功するのかしないのか、これによって人気は大きく変化をするでしょう。

 ダニエル書7章13節に「夜の幻をなお見ていると、/見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み」という御言葉があります。ダニエルの見た幻ですが、この「人の子」というのは救い主、メシアを意味します。イスラエルは、アッシリア、バビロン、ペルシャ、シリア、ローマなどの大国に脅かされてきました。そうした中で救世主を待望する信仰が強まっていきます。

 主イエスが現われたとき、人々がイエスに求めたことは、イスラエルの再興でした。しかしイエスが求めたことはそうではないということが分かった時、人々はイエスを捨てました。
Ⅱコリント7章18節「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」とパウロは語っています。
“見えるもの”この世のものは不必要といっているのではないが、しかしこの世は変わります。盛衰があります。そうした中で“見えないもの”、変わらないものがあります。もっと大切なものがあるように思います。それをしっかり捉えていないと、見誤ってしまうかも知れません。それに自ずと見を引くことも分かるであろう。

投稿者: 日時: 15:44 |

アネモネの花のように

 新年おめでとうございます。

 新年礼拝に大勢の方々が来られました。その年によって出席が大きく変わる新年礼拝です。昨年来られていた方々、今年は来られていないというのもありますが、ともかくも礼拝をもって新しい年の歩みを始めることが出来るのは感謝なことです。

 説教は、マタイ伝6章の山上の説教のななから「思い悩むのは止めなさい」と言われるイエスの言葉からお話しをしました。嫌でも思い悩まざるを得ない昨今ですが・・・・。

 イエスが指差しながら話されたのは、空の鳥であり野の花です。ガリラヤ湖畔での春のひと時、その丘には赤い花を咲かせたアネモネが一杯に咲いています。花の直径は4~8cm、花びらの基は黒っぽく、周りは白い、実際は花びらと思われているところは、がくが変化したものである。朝に花は咲き、夜に閉じてしまう。聖書には“明日は炉に投げ込まれる”とある。そんな花ですが、薬として絞り汁などが使われていたようだ。

 アノモネは“野のゆり”とも言われます。雅歌5章13節に「頬は香り草の花床、かぐわしく茂っている。唇はゆりの花、ミルラのしずくを滴らせる。」とあり、そのようなところから“ゆり”の候補として挙げられています。とても愛らしく美しいイメージがわいてきます。明日は炉にまきとして投げ込まれてしまうような草花ですけれども、このように神は美しく着飾っていてくださる。

列王記上10章4節~5節「シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった。」と書いています。イエスはこのようなソロモンが極めた栄華もこのアネモネの愛らしい美しさには及ばないと言われます。人間の力で築きあげられた美はさ、神の造られた自然の美しさには及ばないということでしょう。

 神は人間に、知恵と知識と力とを与えてくださった。それを屈指して文明を文化を創り上げてきました。それも神の許しの中にあることですが、しかし同時に人間は、そこで“思い悩む”という心労を経験しなければならなくなりました。いや、この“心労”ということに人間が自らを神の如くに考えて、神から与えられた賜物を使ってきた、ということが表されているのではないかと思います。

 ですから、確かに人間に備えられている能力を最大限に使いながら、この百年に一度の経済危機と言われている、今の世の中を渡っていけばいいのですが、しかしその人間にもどうにもならないことがあります。いくら思い悩んでもどうにもならないことがあります。いくら歯を喰いしばっても耐えられないことがあります。その時に、神に自分を任せてみる。神とは、いわば大きな手のひら、私たちの人生の土台を支えている大きな手のひらのようなもので、その中に、私たちにとって必要なものがすべてある。その手のひらの中に自分自身の身を任せてみようか、という発想をもって生きていく。それが“思い悩まない”ということです。そこにきっと新しい生き方が見えてくるでしょう。

 神に支えられた一年をお送りください。

投稿者: 日時: 22:34 |