2010年06月のアーカイブ

愛は自らをコントロールする力を与える

 13日の日曜日の午前8時30分ごろに西進のバイクと北進のタクシーが教会の前で衝突しました。バイクの部品が飛んできて教会の玄関のガラスの一部が割れました。ガシャンという音と共に悲鳴が聞こえました。自転車に乗った親子ずれの前での事故だったようです。彼らもこけたようですが怪我はありませんでした。事故ったバイクの子は横たわっていて、しばらくして救急車で搬送されました。でも、何か救急車の到着が遅いなぁ~という印象が残っています。

 後の話ですが、女の子だったのですが、軽傷ですんだようです。本当によかったと思います。当日は、まともに当たったと聞いていたので重傷では、と思っていたのです。

 一部始終を見ていたわけではありませんが、どうもタクシーの運転手は先に会社に電話をしていたような気がしました。それから救急車を呼んだようです。会社の人が来ていて、何度か運転手に“救急車を呼んだか”と確認していました。いったん停止をしなかったバイク側に問題がありそうですが、その時にふと思ったことですが、おそらく事故った時のマニュアルとして、即、会社にとあるのかも知れません。あるいはす、運転手も気が動転していたのかも知れませんが。ともかくも、大したことではないのだが、ほんの何十秒か、1分か、2分の差だと思いますが、先に救急車ではないか、と思いました。

 よく事故って逃げた話を聞きます。その時に聞く言葉が“怖かった”という言葉です。この言葉の背後には“保身”があると思います。保身そのこと自体は悪いことではないと思うのですが、しかし時にはそれをコントロールしなければならないことがあります。どちらに問題があるにしてもまず救急車ではないでしょうか。なぜなら人の命がかかっているからです。

 イエスの“良きサマリア人の譬え”を思い起こしました。人は理屈を考えます。人は理由づけをします。“だからしかたがない”。しかし、そこに登場してくるレビ人たちが、倒れているけが人を前にして、去って行ってしまったのですが、どんな理由があって、助けなかったことを正当化できるのでしょうか。

 聖書の中で、神は、ご自身に背く人間のために独り子を送ってくださったと教えています。聖書に「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とあります。神は人間が救われるためにどうしても独り子を献げなければなりませんでした。独り子が人間の代わりに裁きを受けなければ、人間の罪は赦されない、天国への道は開かれないのです。そんな葛藤の中でイエスはキリスト(救い主)として遣わされて来たのです。

 上記の聖書の言葉は、神が自らの思いをまさにコントロールして独り子を地上に送られた、その神の愛を表しています。愛は自らをコントロールする力があるのです。

投稿者: 日時: 16:41 |

神と向き合って

 孔子の言葉に「子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」とありますが、この時の「天命」とはなんでしょうか。孔子が50歳になったころ、自分の命が天から与えられたことを悟ったのでしょう。そこで自らの命の再生というものを覚えたのかもしれません。この人生に対する孔子のとらえ方というのは古くから日本にも影響を及ぼしてきたと思います。当時、50歳と言えば、おそらく晩年ということになり、ただ衰えていくという中で、“天命”を知って、新たな命を与えられる、そんな思いが起こってくるのでしょう。孔子の中の命の流れというものを感じます。

 大乗仏教には「菩薩」というのが存在します。菩薩は往生してしまうのではなく、この世と関係を持ちながら死と命の媒介者として存在しています。人はこの菩薩に向けて修行し仏僧となります。中世において死を無にしてしまうのではなく、霊魂を力のある存在として感じ、それと交流し供養を行うのですが、この死者と死の交流が、死者を弔い、祀り、追善供養する動きともなっていきます。そこには、人は死んでもその霊魂は何処かに存在をし、それと交流することができる、そのような考えの中で死ぬこと、生きること、そして新たな命というものを一つの流れの中で、死と再生というものを感じ取っていたのではないかと思われます。

 近世に入りますと、1614年に出された排切支丹文によると、「伴天連の徒党・・・刑人あるを見れば、すなわち欣び、すなわち奔り、自ら拝し自ら礼す。これを以て宗の本懐となす。邪法にあらずして何ぞや。実に神敵仏敵なり。急ぎ禁ぜずんば後生必ず国家の患いあらん。ことに号令を司る。これを制せずんば、かへつて天譴を蒙らん。日本国のうち寸土尺地、手足を措くところなく、速やかにこれを掃攘せん。強ひて命に違ふものあれば、これを刑罰すべし」とあります。要するに死者を敬い愛着を強く示していることに対して、それを禁じなければならないと感じたということです。それに必然的な正当性を示そうとしているわけですが、とくに江戸幕府などは意図的にキリシタンに対して邪教観を国民に植え付けていきます。

 このキリシタンを排除していくために“檀家制度”というものが作られてきました。このことが今述べてきました日本人が持っている死生観と檀家制度によって生まれてきた強い血縁関係とがつながって先祖崇拝へと更に向かわしたのではないかと思います。この先祖を崇拝することが、更に君主、そして天皇崇拝と繋がっていくことになるのではないかと思われます。この宗教性をもった血のつながりというものが、“世襲”ということを一般化させていったのではないかと思えます。

 このように見ますと超越性をもっていたキリシタンと人のつながりの中でとらえられていく宗教観とは相入れないものがあるのかも知れませんが、しかし仏教にしても儒教にしても宗教としての超越性を本来持っているのですが、それが政策によって希薄にされたと言えるでしょう。

 誕生には神社、死については仏閣と、それが繰り返されていくこの循環が大事にされたのです。しかし、そこには「個」というのがなくなってきたと思います。そこには「対する」とか「向き合う」ということが欠如しているがゆえたでとも思うのです。日本人は自然との調和、宇宙との調和を探そうとしますが、何かに「対峙する」ということの中で「個」が作られていくのではないかと思います。

 ホイヴェルスという神父は、「コスモスの調和ということは日本人においてあらゆる人間的願望の暗黙の前提であり、自明の目標である。古い仏像芸術の中には、表情や姿勢がこのことを完全に映し出しているような仏像がある。ある学生は“キリスト教芸術の中にこのようなキリストを見つけようとしたが無理だった”と私に言った。しばらく考えた後で、私は彼の正しさを認めざるを得なかった」と語り、その理由として「キリスト教はコスモスの調和を突き破るからである」と語ります。

 キリスト教は、聖書の神、すなわち創造者をご自身が造られた被造物よりも高い次元でとらえているからです。この神と向き合うところから、コスモスの調和を打ち破っていくものが生まれてくるのではないかと思います。そして「自分が生きること」、「自分が死ぬこと」、そして「自分の命のこと」について見えてくるものがあるように思います。

投稿者: 日時: 17:44 |