2010年07月のアーカイブ

関係

旧約聖書の創世記に、人が一人でいるのはよくないと言っています。その「一人」という言葉は、数のことを言っているのではなくて、「隔離している」「差別されている」そういうことを意味している言葉なのです。といてうことは、聖書は人を孤立させてはいけないと、いっていることになります。確かに、孤独というのは様々な問題を引き起こします。人とは、関係を必要としている生き物だということです。

 ある中学校の先生方とお話をする機会が与えられたのですが、最近は不登校の傾向ですが、昔のような不良行為などで学校に来ないというのではなくて、他者と関係を持つのが難しいので来れない、というのが多いそうですが、そこに潜んでいるのは父親との関係がうまくいっていない、そういう子供が何人かいますとのことでした。家庭での関係がすべての基にあると言えますね。その家庭の中核をなすのが夫婦の関係です。

 さて、創世記は、一番最初の人間を「アーダーム」という呼んでいます。英語でしたらmanと訳してしまうので、男と思ってしまうのですが、男でもない、女でもないのです。「人間」という言葉なのです。その人間は、土から造られたと創世記は言っています。その土を「アダマー」と言うのですので、「アダム」というのです。なかなか面白い書き方といいますか、文学手秋といえます。聖書のユーモアと言えますが、しかし、確かに、人間と土の関係というのはとても大切です。土を耕し種をまき、そのようにして土から収穫を得て、人は生きてきました。自分のためだけではありません。それはほかの多くの人々も糧をえるためでもありました。働くというのは、自分さえよければいい、というのではなく、自分が働くということを通して、他の人も何らかの益を与えていく。それが人間の務めとして与えられている労働、働きということではないかと思います。そこにも関係、すなわち社会というものがあります。

 そこで創世記は、「彼に合う助ける者を造ろう」と神は言われたと書いています。息子の結婚式で語った説教を基にして書いているのですが、結婚についてある人が、こんなことを言っています。“孤立した私と、孤立したあなたとの間に橋をかけて、一つとして生きることだとです”とです。人として一つとなって生きるということを、語っているわけですが、関係の基がここにあるのてだす。神は、獣や鳥を彼のもとに連れて来たけれども、鳥や獣では「彼に合う助ける者」とはならなかったのです。なぜかというと、対等ではではないからです。ペットは人間が治めるという形でしか人生の同伴者にしかなり得ないからです。

 そこで見出されたのが、創世記はいいます、「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。『ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。』こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」

 「彼に合う助け」になるというのは、「一対」という意味で、それを表すようにヘブライ語のごろ合わせの遊びが入っています。男はイシュといい、女はイッシャーというのです。靴は左右そろって、初めてその役割を果たします。どちらが欠けても靴は役に立ちません。それが一対ということです。

 なぜ「一対」かと言いますと、靴というのは左右違います。違うからこそ一対でいられるのです。違うからこそ、その役割を果たすことができるのです。夫婦とは、“似た者夫婦”というけれども、違うからこそ一足の靴として似た者夫婦と言われるのだと思います。だから助けになるのです。

 「助け」という言葉の原文は、「エゼル」といいまして、神によく使われる言葉です。例えば、「エリエゼル」という言葉があります。「神は私の助けです」という意味です。しかし、なによりも一番の助けは神様ですね。この神様は人を孤独のままに捨て置かない方です。

投稿者: 日時: 15:42 |