2010年05月のアーカイブ

現代の箱舟

 ノルウェー領スバールバル諸島で、山腹を150mほど水平にくりぬいて三つほどの部屋を作り、一種類につき種子500個、50万種に及ぶ作物ほ保存しているとのことです。そこは常に零下17℃から18℃に維持されているそうで、その温度だと種子は2000年ぐらいは持つそうだ。

 確かに多くの種類の作物が失われてきた。1800年代の米国に7200種あったリンゴの種類のうち6800種類失われたそうだ。品種改良ということで、より美味しいもの、より強いものが作られて、在来の種類が捨てられていったのです。しかしそれこそ、新しい種類を作るためには多様な在来の種類が多く必要とされる、ということもあって、このようにして作物の種子が保存され、未来へと継がれていくのです。

 このようなことはノルウェーに限らず、日本もそうですが、各国でなされているようです。しかしノルウェーのは山腹をくり抜いているので、たとえ爆弾の攻撃を受けてもびくともしないとのこと、まさに現代のノアの箱舟です。

 しかし、“ノアの箱舟”は、作物だけが乗っていたのではない、ノアの家族たち、すなわち人間も乗って、難を逃れたのです。頑丈な箱舟を作って、多くの種子を保存できたとしても、2000年後、地球はどうなっているのか。今、金星に向けてロケットが飛んでいますが、その金星の大気のほとんどが二酸化炭素だといいます。そのために地表が何百度だとか。地球がそうなるとは思わないが(それまでに人類が滅んでしまいますが)、そうならないような“人類”を次の時代へと繋いでいく箱舟も必要のような気がします。

 少し話は変わりますが、私は、ヘンリー・ナウエンという神父を思いおこします。彼は米国の名門大学のイェール大学神学部の教授を1971年から10年間務めていました。その間、彼はキリスト教の霊性について講義をしていたのですが、それと共に世界各地を飛び回り講演活動もしていました。そうした彼の講演は直ちに本となって出版され、多くの人々に読まれ、多くの人々に影響を与えてきました。そな彼の様子を想像すると、よほどバイタリティに溢れた自信家のようにも思えますが、実はそうではないのです。彼は常に考えていました。“神の御旨に適っているのか”と、その心は憂えていました。彼は大学を辞して、南米に渡り、しばらくの間、ボリビアなどで働きますが、再び米国に戻り、今度はハーバード大学で教鞭をとりますが、やはり平安を得られず、カナダにある障害者たちの共同体“ラルシュ共同体”のいち司祭として働くようになります。そこで彼は人に仕えて働くことに喜びを見出すのです。

 ナウエンがハーバードを去る時に次のように書き遺しています。「自分の同僚や学生たちに大声で叫びたい。ハーバードに仕えるのは止めよと。神と、その愛したもうイエス・キリストの仕えよと。そうして、孤独、苦悩や精神的貧困に悩む人々のために希望の言葉を語れ」とです。

 高学歴社会の中で、どのような人々を育てようとしているのか。次の時代にどのような人類を育てようとしているのか。自分の利得のために人を利用したり、弱いものを騙したり、また傷つけたり。あるいは逆に恩恵を受けて当然だと考える人間、そんな人の姿を垣間見ていて思いますが、人間の霊性を養っていくことを考えなければならないように思います。ノアは箱舟の中で自分を見つめ、神と向かい合いながら一年を過ごしただろう。

投稿者: 日時: 16:52 |

大志を抱いて

 以前、高校などのレベルを評価するのに、東大に何人、京大に何人合格したか、ということで評価されていました。“今年は灘高から何人東大に行った”ということが言われていました。それを誇りとして名前を連ねる高校はだいたい決まっていたのですが、最近は、高校の評価の仕方が変わってきとのことです。国公立の大学の医学部に何人合格者を出したか、ということで評価されるとのことです。

 どうして医学部なのか、と思います。今は医者が少なくて、コマーシャルにも出てきますが、仕事がきつい、汚いということで嫌がられる傾向にあると思うのですが、でも、この数年は変わってきているのです。どうしてなのか、“やっぱり医者、いくらきつくても、最後は医者に頼らざるを得ない”“社会的な地位も高く、高収入が得られるし、やはり安定した道だ”ということがあるのかも知れません。

 今、優れた医者が必要とされていると思います。ある評論家が「国手」(こくしゅ)を目指して医師を志してほしいと言っていましたが。この「国手」というのは、辞書を調べると、国を医する名手という意味で、名医を表している言葉です。医術を通して国を救うほどの志を持ってほしいとのことです。

 でも、今は、“大志を抱いて”などと言うと、時代錯誤もはなはだしいと言われるかも知れません。“大学は出たけれど・・・”といわれるようなご時世で、なかなか就職が難しい。自分の望む仕事につける人なんて、ほんのわずか、一握りの人間にしか過ぎない、多くの者たちはアルバイトで食いつなぐ、そんな時代だから、まず安定を願う、まず金儲けを願う、当然ではないか。その通り、金儲けも安定も悪くはない。

 しかし、目先のことだけに生きるのは、一回の人生、なんとなくさみしい。同じ道を歩むなら大きく望みは持ちたいもの。江戸から明治に変わったころ、多くの下級武士たちが生きる道を失った。そんな中でキリスト教を通じて希望を抱いた若者たちがいた。植村正久や内村鑑三など、日本の国に大きな影響を与えた人々を当時のキリスト教界は生み出しいきました。また彼らの弟子たちのうちからも優れた人物を輩出していきます。この福音こそ、自分たちが身を立てていくことができる道だと、大きな志をもって彼らは信仰をもって社会に出て行ったのです。

 札幌農学校のウィリアム・スミス・クラークは、その第一期生に「少年よ大志を抱け」といったということで有名ですが、実際は「この老人のようにあなたたち若者も野心的であれ」と言ったのではないかとも言われたり、また「少年よキリストにあって大志をいだけ」といったも言われたり、いや、それは後にキリスト者が“キリストによって”という言葉を付け足したのだともいわれていますが、その辺のことはよくわかりません。

 しかし、彼は植物学だけでなく、学生たちに聖書を講じたことは真実です。ですからクラークの心の中には、やはり“Boys, be ambitious in Christ ! ”という思いではなかったかと思います。明治時代のクラークは、今の若者にも同じように語りかけているのではないだろうか。

投稿者: 日時: 23:32 |