愛は自らをコントロールする力を与える

 13日の日曜日の午前8時30分ごろに西進のバイクと北進のタクシーが教会の前で衝突しました。バイクの部品が飛んできて教会の玄関のガラスの一部が割れました。ガシャンという音と共に悲鳴が聞こえました。自転車に乗った親子ずれの前での事故だったようです。彼らもこけたようですが怪我はありませんでした。事故ったバイクの子は横たわっていて、しばらくして救急車で搬送されました。でも、何か救急車の到着が遅いなぁ~という印象が残っています。

 後の話ですが、女の子だったのですが、軽傷ですんだようです。本当によかったと思います。当日は、まともに当たったと聞いていたので重傷では、と思っていたのです。

 一部始終を見ていたわけではありませんが、どうもタクシーの運転手は先に会社に電話をしていたような気がしました。それから救急車を呼んだようです。会社の人が来ていて、何度か運転手に“救急車を呼んだか”と確認していました。いったん停止をしなかったバイク側に問題がありそうですが、その時にふと思ったことですが、おそらく事故った時のマニュアルとして、即、会社にとあるのかも知れません。あるいはす、運転手も気が動転していたのかも知れませんが。ともかくも、大したことではないのだが、ほんの何十秒か、1分か、2分の差だと思いますが、先に救急車ではないか、と思いました。

 よく事故って逃げた話を聞きます。その時に聞く言葉が“怖かった”という言葉です。この言葉の背後には“保身”があると思います。保身そのこと自体は悪いことではないと思うのですが、しかし時にはそれをコントロールしなければならないことがあります。どちらに問題があるにしてもまず救急車ではないでしょうか。なぜなら人の命がかかっているからです。

 イエスの“良きサマリア人の譬え”を思い起こしました。人は理屈を考えます。人は理由づけをします。“だからしかたがない”。しかし、そこに登場してくるレビ人たちが、倒れているけが人を前にして、去って行ってしまったのですが、どんな理由があって、助けなかったことを正当化できるのでしょうか。

 聖書の中で、神は、ご自身に背く人間のために独り子を送ってくださったと教えています。聖書に「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」とあります。神は人間が救われるためにどうしても独り子を献げなければなりませんでした。独り子が人間の代わりに裁きを受けなければ、人間の罪は赦されない、天国への道は開かれないのです。そんな葛藤の中でイエスはキリスト(救い主)として遣わされて来たのです。

 上記の聖書の言葉は、神が自らの思いをまさにコントロールして独り子を地上に送られた、その神の愛を表しています。愛は自らをコントロールする力があるのです。

投稿者: 日時: 2010年06月18日(金) 16:41