のびのびゆったりと

 下記の写真は甲山で神呪寺の風景ですが、戦中、戦後は背景の山も禿山だったそうです。燃料のためにすべて伐採されていたのですが、植林がなされてきたのでしょうが、今はこのように緑の多い山となっています。何か自然の回復力というものを覚えます。

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 旧約聖書の詩編104編には自然がうたわれている。水は川となって谷間を流れ、神が定められたところに溜まる。その水によって野の獣や野ロバが喉を潤す。そしてその水によって木が育ち、「そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。」といわれている。ここに他にも幾つかの獣が出てくる。岩狸もそうだ。詩編に「高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。」とうたわけている。高い山は人が登るためにあるのではなく、獣たちのために神が設けたとうたわれている。

 旧約聖書の箴言というところにも出てくる。そこでは小さな生き物の一つとして数えられている。「この地上に小さなものが四つある。それは知恵者中の知恵者だ。」といわれて岩狸が出てくるのだが、他にも“ヤモリ”というのが出てくる。なぜヤモリが知恵者かというと、王様は自分のために財力を投じて宮殿を建てるが、ヤモリはそこに住み着くというわけだ。聖書というのは面白い。

 そのように小さな生き物に神様は目を留められるのだが、さらにこんなことも詩編でうたわれている。海である。イスラエルというのは陸の民であるので、おそらく海というのは恐れの対象であろう。その海の中に海獣がでてくる。「舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。」と。このレビヤタンというのは想像上の生き物ですが、イスラエルの恐れの対象として描かれているのでしょう。でも詩人は、その恐れの対象を、子どもが踊るように「戯れる」と描いている。

 この詩編104編は、神様をほめたたえる言葉で始まり、神様をほめたたえる言葉で終わる。要するに聖書の信仰というのは、神様を仰ぎながらの生活は、のびのびと、ゆったりと生きられることを表しています。

 話しを新約聖書に飛ぶが、ルカ12章24節に「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」とイエスは語っている。ルカが「カラス」と言っているが、当時、モーセの律法によるとカラスは不浄の鳥とされていた。レビ記11章15節に「鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え。食べてはならない。それらは汚らわしいものである。禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、鳶、隼の類、烏の類、・・・」と。いくら安いとはいえ、雀は五羽で2アサリオンで売られていた。それなりの商品価値がある。しかしカラスは律法で、不浄とされ、食べてはならないと戒められている。要するに人間の生活になんの貢献もしない、商品価値のないものだ。しかし神様は、その小さきもの、価値なきものに対しても愛を注いで支えてくださるのだ。

 この神様に見守られて生きる日々は、本当にゆったりとした思いが与えられるのではないでしょうか。

投稿者: 日時: 2009年05月20日(水) 15:09