悪循環

 写真は鳥取刑務所の正面玄関です。以前は京都刑務所に行きましたが、そこは町中にある刑務所でしたが、鳥取は周りが田園風景で、日本海に近いところにありました。今の刑務所は定員オーバーで独房に二人入っていたりしています。なかなか厳しい環境です。部屋を見ますとウチワが置いてありましたが、風通しがわるそうで、作業が終わってから部屋に戻って過ごす時間は暑いだろうと思います。しかし救いなのは、夜になるときっと気温は下がるだろうなと思います。六人部屋に八人入っていて、窮屈そうである。


 作業しているところを見ましたが、静かに黙々と作業を続けていました。この刑務所には700名ほどが入っているのですが、その内の約22%が薬物関係の罪と言うことですが、最近は薬物犯が増えているのです。増えていると言えば老人が増えている、高齢化しているのです。

 ある刑務所でこんな話があったそうとです。老人の受刑者が出所近くなると精神的に不安定にあるそうです。イライラしてきて人とついぶつかってしまいます。そんな時、教官が“またここに帰ってきたらいいやないか”と言ったそうです。それが知れてかなりお叱りを受けたそうですが、しかしその受刑者は精神的に落ち着いたというのです。刑務所の中では作業をすると1時間当たり7円~46円の手当がもらえます。ですから何年入っているかによっても異なりますが、何万円かを持って出所するのです。しかしどうでしょうか。家もない、身寄りもない、仕事もないという中で、持って出たお金で何日暮らせるというのか。このままでは死んでしまいます。そこで彼は無銭飲食をしますが、店の主人が訴えないで外に放り出して終わりました。それで彼はコンビニに鉄パイプをもって強盗に入り、鉄パイプの重さにふらついて御用となります。そして再び彼は同じ刑務所に戻ってくることになりました。その彼を迎え入れた受刑者仲間が、彼の手を取って“無事に帰ってこれて良かったな”といったというのです。マンガのような話ですが本当にあったことだそうです。

 自由奔放に生きてきた彼らには福祉の網はかからないのです。彼らにとって刑務所が最後のセーフティネットになっているのです。むろん彼ら自身の責任によるのですが、しかしある意味で社会の在り方がそのような形を作ってしまっているといえるでしょう。家と職が必要と言うことになります。

 イエスの罪の赦しの御業を見ると病の癒しと罪の赦しの宣言が一緒になされているのを見ますが、そのことを考えると、赦しというのは口先だけの事柄ではなく、具体的な癒しが伴うということができます。これを社会的なレベルで展開させていくとするならば、悪循環をどこかでたちきるような仕組みを造られなければならないと思わされます。そのためにはかなりのエネルギーが必要とされます。そこで政治家の登場と言うことになるのですが・・・・。そこに力を注ぐことが安心・安全の社会に繋がるのだろうと思います。しかし、まあ根本的には本人によるところが大きいということでしょう。

 ともかくもキリストの罪の赦しは人を造り変えていきます。その典型的な例がパウロという人です。「かつて」はキリスト者を迫害し教会の敵でありましたが、そのような小さな者を神は捉えて、罪を赦し、「今や」そのキリストの福音を伝えるために命をかけて働く者と変えられました。パウロはガラテヤ1章で「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」と語っています。「かつて」と「今」とを引き裂くようにして神が介入されることを語ります。この神の介入を与えられてこそ、人生も変わるというものです。キリストと出会う機会があれば大切にしてほしいと思いますね。

投稿者: 日時: 2011年07月08日(金) 23:48