2010年10月のアーカイブ

旧約聖書のコヘレトが見る現代

コヘレトは不正がこの国に蔓延しているのを見ています。そもそもコヘレトは「不正」という問題に強い関心を持っていました。
3章16節~17節「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。」
4章1節~3節「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。」
人間社会の現実をコヘレトは見てきました。

 古代の王様は公平と正義を守ることを期待されています。
サムエル記下8章15節「ダビデは王として全イスラエルを支配し、その民すべてのために裁きと恵みの業を行った。」
列王記上10章9節「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」
詩編72編2節「王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。」
これが支配層の基本的な倫理です。しかし重要なのはそれを神が求めているということです。
エレミヤ22章3節「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」

 旧約聖書の幾つかの御言葉を見ましたが、古代のイスラエルではこの正義と公平という精神が根底に流れていたということを見て取ることが出来ます。ルツ記における“落ち穂拾い”というお話もその精神によります。貧しい者たちのために意識的に落ち穂を残しておく。なぜこの精神が継続されていかないのか。コヘレトは「貧しい人が虐げられていることや、不正な裁き、正義の欠如などがこの国にあるのを見ても、驚くな。」と言っています。不正、搾取がこの国に蔓延しているのは当然のように驚かないというのです。その理由についてコヘレトは、「身分の高い者が、身分の高い者をかばい/更に身分の高い者が両者をかばうのだから。」と言っています。ここに官僚主義の問題点があると言えます。仲間意識が仲間をかばい、たとえ不正があったとしても隠してしまうということがおこります。北朝鮮で世襲制が進められていますが、世襲制がさまざまな不公平さを生んでいく原因でもあると思います。特権階級を作ってしまうのです。社会主義で世襲制はあり得ないと思いますが、人間の作り出す社会というのは矛盾だらけです。物欲・力欲・保身などなどが生みだすのでありましょう。

 「仲間」というのは大切なことだと思います。仲間意識が支えになり励ましになることは当然あります。しかし、ここでコヘレトが使っている言葉に注目しますと「身分の高い者」という言葉を使っています。これは「ガーボーアハ」ということばですが、「傲慢」という意味も持ちます。仲間意識が特権階級という意識を生み、傲慢になってしまう。そこに不公平さが生まれてしまうのです。特に古代では世襲制が当然のように行われていたのですから、預言者の言葉に心して耳を傾けなければなりませんでした。

 8節「何にもまして国にとって益となるのは/王が耕地を大切にすること。」と言われています。このコヘレトの言葉の背景には、一部の特権階級の者たちによって土地が富を蓄えるという意味で買い占められていく、というのがあったのではないかと思われます。要するに、貧しい者が耕作地を奪われということが起こっているのです。
イザヤ5章8節「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。」
しかし、このような土地の所有の仕方では国に益をもたらしません。土地が人々の益として用いすられるのは耕作地として用いられるときです。土地は王様の財産の一部としてあるのではありません。でも、王様が、身分の高い者が、民のために土地を彼らの耕作地として用いる、自ら富を蓄えることを断念することが出来るだろうか。
箴言29章4節「王が正しい裁きによって国を安定させても/貢ぎ物を取り立てる者がこれを滅ぼす。」
人間には難しいということかもしれません。旧約の知者はそこまで見抜いているということです。

 上記の箴言に関係して面白い言葉がコヘレトにあります。10章16節~17節「いかに不幸なことか/王が召し使いのようで/役人らが朝から食い散らしている国よ。いかに幸いなことか/王が高貴な生まれで/役人らがしかるべきときに食事をし/決して酔わず、力に満ちている国よ。」
コヘレトは新しい王の出現を期待しています。
イザヤ45章18節「神である方、天を創造し、地を形づくり/造り上げて、固く据えられた方/混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた方/主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。」と。神は、創世記で語られているように、世界を大都会から始められたのではなく、土地は人によって耕される、そこから始められたのです。富としての土地ではなく人を生かすための土地たでした。富を蓄える、そこに罪の助長を生みます。
 私たちの神は、人をその罪の滅びから救うために、貧しくなられたのです。貧しい者を顧みるために独り子を送られたのです。いや、神自ら貧しくなられた、人となられたのです。これが神の正義、公平なのです。そのことによって私たちは正義と公平が支配する神の国を継ぐものとされました。神の国に生きる者として、私たちは御言葉に真摯に耳を傾けて自らの歩みを省みなければならないでしょう。そして主の祈りの中で「御国が来ますように」と祈りますが、私たちは、この地上で、御国の到来を願いつつ、しかも地上でも神の正義と公平がなされるようにと祈りつつ歩むのであります。

投稿者: 日時: 15:36 |