2010年08月のアーカイブ

時を読む

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時/泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時/石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時/求める時、失う時/保つ時、放つ時/裂く時、縫う時/黙する時、語る時/愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。」  旧約聖書「コヘレトの言葉」より。

 私は今の教会を牧会して22年になるが、今年、還暦を迎え自分の身の処し方をふと考えることがある。「還暦」を別名「丁年」ともいう。「丁」とは20歳から60歳までを言い、強壮の時を意味する。20歳のことも「丁年」というのだが、還暦の丁年は、その壮年の時が過ぎたことを意味する。要するに老人ということで、還暦とは長寿の祝いにはいるのである。ひょっとしたら「定年退職」の「定年」と「丁年」とは関係があるのかも知れません。今日では「定年退職」は60歳では早いと言われていますが、ともかくも退くべき時があるということですね。しかしこの「丁年」というのは個人差が大きいように思える。気力も体力も知力もまだ十分まだまだあるという人もいるでしょうし、そうてあ゛ない人もいる。自分でその時を判断しなければならない。

 年齢の別称は、昔の人の時を読む知恵ではないか思う。2~3歳を「孩堤」といいますが、「孩」というのは、抱かれることを意味する。その年代の子供に必要なことではないか。7~8歳を「三尺の童子」といい、「三尺」とは身の丈を意味しているとも、無知を意味しているともいわれる。そして10歳を「幼学」と表現する。「人生まれて十年を幼といいて学ぶ」という「礼記・曲礼上」からきているようだ。まだ幼さがあるとは言え、様々に興味を持ち学び始めていく年代なのでしょう。20歳は「弱冠」と言われるが、冠を頂いて成人としたのが中国の周の時代。そのから来ているのだが、成人とは言えまだまだ若い、ということを意味している。そして人生五十年と言われますが、50歳を「知命」と言う。あるいは「艾年」とも言うが、「艾」とは「よもぎ」を意味しており、よもぎのように髪が白くなるという意味である。このように昔の人々は各年代を言い表して、その人生の今の時を読んでいたのでしょう。

 最初に記しているのが旧約聖書の「コヘレトの言葉」の中の言葉であるが、そこで「植える時、植えたものを抜く時」と言われているが、稲を植える時というのは季節の移り変わりの中で決まっている。あるいは収穫もそうだ。時を逸すると稲も育たないし、収穫もわるい。そのように“今なすべきこと”というのを読まなければならない。“黙らなければならない時”もあれば“語らなければならない時”もある。人の人権が侵害されている時に、それを見らがら、それを知りながら“黙っている”ことは金にはならず、むしろ値はなく害をなす存在ともなる。しかしまた逆にべらべらとしゃっべてはならず、沈黙を必要とすることもある。それを見極めるのが人間の知恵である。

 しかし人生というのは、そう簡単ではない。いつも必ず正しく判断できるとは限らない。正しく判断したと思っても、どこかで人が傷ついていることもある。傷ついた人が呑み込んで沈黙していることもある。時を知り正しく行動する、語ることは難しい。そして「生まれる時、死ぬ時」、また「戦いの時、平和の時」という言葉がある。いやこの言葉によってこのコヘレトの一連の言葉は括られている。人の生き死に、そして戦争や平和、これらは個人の力を超えている。個人の判断力を超えて我々に迫ってくる。どうすることもできない側面を持っている。だから時には受け入れていかざることもあるのだ。いや、そのことのほうが多いかも知れない。

 このコヘレトの「時」を知るという根底には神の摂理を信じるという信仰がある。それに委ねて時を読み取り、受け入れていく。新約聖書に次のような言葉がある、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。このような信仰をもって、人生の中に起こってくる様々な出来事、その時を受け入れ、その時になすべきこと、語るべきこと、語ってはならないこと、を見極めていけるものでありたいと思う。しかしたとえその判断が誤ったとしても、神に委ねることができる幸がある。

投稿者: 日時: 10:08 |