2010年03月のアーカイブ

❝思い込み❞

 “思い込み”ということがあります。
例えば、ある男女の会話。
A男・・「今度の祭日に映画を見に行かないか」
B女・・「いや、ごめんね、私、用事があるの」
A男・・「恥ずかしがらなくてもいいんだよ、一緒に行きたいのでしょう。嬉しいのにごまかして・・・」
B女・・「え?・・・・」

 おそらく、この思い込み野郎は気持ち悪がられるでしょう。こんな会話はないとは思いますが、似たようなことがあるのではないかと思います。

 聖書に有名な物語があります。簡単にその話の粗筋を書いてみますと。
エリコという町に“ザアカイ”(清い人)と言う名前の徴税人の頭がいました。彼は金持ちであって、おそらく徴税の仕事の中で、ピンはねをしたり、袖の下をもらったりしながら、私腹を肥やしていたのでしょう。それで町の人々からのけものにされていました。そんな時にイエスがエリコに来られたので、ザアカイも見に行きました。しかし人々が彼を邪魔にしたので見ることができませんでした。彼は恥も外聞も忘れていちじく桑の木に登ってみようとしました。それで見ることがセできたかどうかはわかりませんが、ともかくもイエスがその木の下に来て、イエスのほうから彼を見あげ、声をかけ、「今日、あなたの家にたまりたい」と言われました。そしてイエスはザアカイの家に泊まりに行ったと考えるのが普通です。

 ザアカイの家の場面に変わって、「19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』。19:9 イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」。これらの会話がなされたと読むのが普通ですが、果たしてそうでしょうか。

 しかし、11節を見ますと、「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。」と言ってムナの譬え話をされますので、本当に宿をとったのかどうなのか、結局は分からないのです。話が続いているとするならば、8節で、ザアカイは立ちあがってイエスに申し上げるわけですが、実際に彼が語ったことは、むしろ群衆に対しての弁明の言葉、“私は皆が思っているほど悪い人間かではないよ”と、抗議しているようにも受け取れます。あるいは彼の悔い改めを公にしているとも言えます。更に、9節で、新共同訳は省いていますが、「イエスは彼らに向かって言われた」とありますが、実際のイエスの言葉を見ますと、「彼」のことを「この人」「この家」というふうに三人称で語ります。むしろ「彼に向って」というのは「彼について」ということでありましょう。だとすると群衆を相手どって、ザアカイも含めて、群衆皆に語っている言葉として考えることができ、またそのほうが話の流れとしては続いていきます。11節「これらのことに聞き入っているとき」とあるとおりであります。

 細かい点は省いていますが、このようにも読めるという例なのですが、ですから聖書を読むときは固定観念や思い御子を捨てて、“聴く”という姿勢をしっかりともって読むべきでしょう。その時に新たな恵みが与えられるのではないかと思います。

 “思い込み”というのは“聴く耳を持たない”ということでもあるのですから、注意をしたいものです。

 そう、これも思い込みに入るのではないでしょうか。
使徒言行録10章に、ペトロは、イタリア人コルネリウスの家からの招待を受けながらためらっていました。10章28節「彼らに言った。『あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。』」という理由でです。神はすべての人間の神であり、すべての人間を愛の対象としておられるのです。

 思い込みは人ほ差別し、人を傷つけ、人権を損ねてしまうことも起こりうるのです。

投稿者: 日時: 15:04 |