祈りと信仰

 福音書の中に盲人のお話がいくつかあります。ルカ伝18章にそれがあります。マタイ伝やマルコ伝にもありますが、そちらでは、この出来事がエリコという町の中でのことであったり、二人出てきたり、さらにはバルテマイという名前までも付いています。そんな違いがあるのですが、ルカ伝での話を書いてみますと、次のようなことです。

 物乞いをしている盲人の前を、イエスが通り過ぎようとされる時、盲人は、感覚が敏感ですから、ただならぬ人の気配を感じ、近くにいる人に「これは、いったい何事ですか」と尋ねたのです。すると「ナザレのイエスのお通りだ」という返事か返ってきました。イエスを「ナザレのイエス」と呼ぶのは、イエスはナザレでお育ちになりましたので、人間としてのイエスを強調している表現だといえます。でも、それを聞きました盲人は「ダビデの子イエス」と呼び方を変えて叫ぶのです。救い主を表す表現です。人々は彼を黙らせようと叱りつけましたが、それにもめげずに盲人は、ますます、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び願い続けました。

 これは出だしですが、ここでのポイントは、「ナザレのイエス」が「ダビデの子イエス」に変わったということでしょう。その違いを簡単に上記に記しておきましたが、この盲人の意識は明確であるということです。焦点が定まっているということですね。何か煮え切れない態度ではないということです。彼には曖昧さがないのです。ここまで明確だとスカットとします。

 彼は何を頼んでいるのかと言うと、「目が見えるようになる」ことです。当たり前と言えば当たり前ですが、彼は自分の問題は何か、ということをしっかりと把握しているということです。悩んでいる人で、自分の問題点がはっきり見えていない人がいますが、自分の問題点、自分の根本的な問題点をしっかりと押さえる必要があります。それをイエスにぶつけていくのが祈りであります。私たちが祈りを積んでいくというのはそこに意味があって、自分の根本的な問題を見出していくことが重要なのです。ですからこの盲人は、単に物乞いをしているのではないのです。

 現実の人生の中にある、あの問題この問題という様々な問題、それについて助けてほしいと思うことはたくさんあります。しかし、そこで留まってよく考えてみる必要があると思います。そうすると、そういう根源的な問題が見えてくるかも知れません。それを探り出して、“これだ”というものをイエスにぶつけてみることが重要だと思います。

 祈りというのは、小さなことがかなえられていくのか、かなえられて行かないのか、そんなところで一喜一憂するのではなくて、人間にお願いするような、物乞いをするのではないので、人間にはとうてい不可能だと思えること、根本的な事柄をお願いしていく、それが祈りというものだろうと思います。お願いするならば、対症療法ではなくて、“これだ”というものを見つけ出して、それをイエスにぶつけていきたいものです。おそらく、この盲人は、“目が見えるようにしてください”と今まで誰にも頼まなかったでしょう。イエスだからこそ、頼んだのです。

 ですからそこにはイエスに対する深い信頼があるのです。“信頼”というのは信仰の重要な要素の一つですね。ヘブライ11章に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」だという御言葉があります。まだ見えていないのです。でも、こうあってほしいなぁ、と望むことを先取りにして、実現したかのように見て取るのです。そこまでの信頼を寄せることが信仰だとヘブライ書は語っています。

 私たちがお祈りする時には、このイエスには、人を愛し、人を癒す力がある、そして盲人が叫んだ言葉「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」、「私を憐れんでください」という言葉、イエスは人を憐れんでくださる方だと信頼して、大胆に、信仰をもって祈り続けたいものです。

投稿者: 日時: 2010年02月17日(水) 16:12