・・・とお金

 教会が布教していくのに、どうしても資金が必要です。今日では信徒たちの献金で賄われているわけですが、1549年に来日したザビエルはどうしたのだろうか。マラッカで有力なポルトガル人から胡椒数トンをもらっちてそれを売って、日本宣教の資金にしたようだ。彼が来てから数年後に日本イエスス会は貿易を行うようになりましたが、既にザビエル自身が日本に商館を設けることや貿易に強い関心を寄せていたようです。

 イエスス会は貿易によって得た富によって活動の経費を賄っていました。当初は、生糸に限られていて、小規模なものでしたが、それが絹糸、陶器、金、銀など様々なものに及び拡大していきました。そのためにポルトガル人の商人の間で評判が悪くなりますが、膨大な財の蓄積ができたようで、シナの教会の支援などもしていたようです。

 秀吉が九州征伐から帰ってきてすぐに“伴天連追放令”を発布します。どうしてかと言うと、様々なことが考えられますが、一つの大きな理由に貿易の権利を手にしたかった、ということです。長崎はイエズス会の教会領となっていました。キリシタン大名大村純忠がイエスズ会に寄進したのです。その長崎港にポルトガル船が入り、イエズス会士を通して貿易がなされていたのです。その伴天連たちを追放しようとしたのです。ですから秀吉は教会組織には手を出さなかったのです。

 秀吉は長崎を直轄地としまして、小西隆佐を送り、ポルトガル船から優先的に買い付けることをしました。しかし、従来の値ではなく、安く生糸を買い占めました。そのことのために、マカオでは動揺が起こり、このままでは日本との貿易はできないということで、ポルトガルの商人たちは、日本に送る予定だった荷をメキシコへと送り始めました。それでマカオにいたヴァリニヤーノは、秀吉に使いを送ります・そして・・・、
“教会に迫害を加え生糸を望みのままの値で買い占めて他に売ることを許さなかったので、今年は日本に生糸は送ることはしない。もしも秀吉が従来通りポルトガル貿易をのぞむなら、イエズス会士の日本滞在を許し、ポルトガル人に対しては従来通り取引の自由を保証しなければならない”と伝える必要性を覚えるのです。(“キリシタン時代の文化と諸相”より)

 ヴァリニヤーノは巧みに貿易を利用します。秀吉も“伴天連追放令”を出してはいるものの、10人以内の伴天連の滞在を許し、事実上、自ら“追放令”を抜きにしてしまいます。この微妙な関係、バランスが徳川の時代になるまで続き、教会の布教活動は継続されていくのです

 なかなか面白い。
 長崎があたかも自由都市のように、港にはポルトガルの商船や軍艦が入り、盛んに交易がなされ栄えています。それを見た国家統一を目指す為政者としてはほってはおけない。自らの権力の維持と繁栄のためにそれを手に入れたいと思うのは当然、その欲との微妙な関係が生まれた。何か聖であり、何が俗なのか、簡単には言えないが、富みそのものは聖でも俗でもない。手段であり道具でもあります。

 しかしそれとは無関係に、当時のキリシタンたちは困難な時代の中で、一所懸命に信仰に生きたのである。ある者たちは殉教もいとわなかったのである。その信仰を裏切るような“富”の使われ方だけは、少なくともしてはならないだろう。少なくとも日本にいた当時の宣教師たち、多くの殉教者を出しているのですが、彼らは富を蓄えることが目的ではなかったことは明らかです。

 いつの時代もお金の問題はつきないが、為政者が国民を裏切っていると思われたら終わりだ。「私は彼と会いました」「私は彼と会っていません」。ある二人の政治家の台詞ですが、明らかに嘘をついています。その嘘の中でのお金の問題。それで潔白を信じろと言うのですか? 難しいですね。“神の前に立つ”ということがないと、こうなるのかもも知れません。この“神の前に立つ私”という実存、これがカギになると思います。

投稿者: 日時: 2010年02月24日(水) 12:43