神に触れる感動を

 思想家のキルケゴールは、自分の家の隅々にメモ用紙を置いていて、頭にひらめいたものがあれば、そのメモ用紙に直ぐに書き留めたと言います。私も最近は、キルケゴールのようにしなければならないなと思うことが度々あります。このようにしてささやかなコラムを書いて、キリスト教理解の一助になればと思っているのですが、ある時に、ふと、“これを書こう”と思うことがあるのですが、しばらくするとすっかり忘れてしまって、コラムを書き始める時は、“何をかこうか”と、思いつくままに書いてしまうことが度々あります。

 でも、“思いつくまま”、“思いのまま”というのは注意をしなければならないと思うのですが、ギリシャ語の教師で有名なO先生という方がおられて、数年前に81歳で亡くなられたのですが、ちなみに先生のお手製のローマ書の注解書を持っていますが、今では手に入らない貴重なものだと思っていますが、私が言うのも何んですが素晴らしい本です。聞いた話ですが、その先生が高齢になられてからの礼拝での説教は、死についての話が続いていたそうです。思いがそこに向けられていたのでしょう。でも、とても大切なことだけれども、毎週毎週その話を聞かされるほうはどうなんでしょう。“ちょっとは違う話を”と思うかも知れませんね。

 私は、ふと思うことがあります。自分のことを言っているのではないのですが、身近にいる説教者の言葉というのは、意外と右から左へと抜けていくものです。それほど大切な言葉として受け止められないものです。同じ言葉でも、外から呼んだ先生が言うのと、自分の教会の牧師が言うのとは受け止める側は違うものです。それでも、自分の教会の牧師が教会を去ってのち、あるいは天国に行ってから、説教テープが残っていたりして、それを聞いてみると、“うあ、素晴らしい説教だなぁ”と思うことがあるものです。

 先の話に戻りますが、O先生の説教、実際に私は聞いたことがないのですが、毎週同じテーマの話を聞いていた聴衆は、実際はどう思われたのかわかりませんが、それを聞いていた時よりも、後にテープで聞く先生の言葉、一つ一つの重さが、実際に聞いていたときよりも感じるかもしれません。感動することが多いと思います。

 ある牧師が“説教とは生モノだ”と言っていましたが、生モノとは新鮮さが勝負ですから、その意味で説教も語られたその時、その場所において意味があるということでしょう。もしそうだとすると、“ミニストリー”という季刊誌があり、そこに毎回、いろんな説教者のDVDが付いているのですが、その説教を聞いたり、読んだりして感動するとはどういうことでしょう。

 その説教の中に普遍的なものが語られており、その普遍的なものに触れるからこそ感動するのではないかと思います。その普遍的なものを見極めるめ、それを味わうことができるセンス、それが大切だと思います。

 新約聖書のルカ伝17章27節以下に次のようなことばがあります。「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。」

 危機がせまっていたのにも関わらず、多くの人々は目先のことだけに生きていた、そこだけに捉われていた。その結果、滅びを招いてしまった、ということです。この話はそれぞれ創世記7章と19章のところで語られているのですが、彼らには神からの何らかの形で警告が与えられていたのにも関わらず、それを聞かなかったのです。聞き取れなかったのでしょう。神という普遍的な方に触れても感動しない、心の上をすべっていく、心の皮が固かったのでしょう。

 普遍的なものを見る目、それを味わうセンスを持ち合わせていなかったのです。困難な時代だからこそ、心を豊かにしていくもの、普遍的な方に触れる喜び、感動を人は必要としているのではないかと思います。そうでないと滅んでしまうかも知れません。キルケゴールではないですが、心の中に普遍的なものに触れていく喜び、感動を刻み込んでいきたいものです。

投稿者: 日時: 2010年01月21日(木) 11:55