年の初めに

 新年のお慶びを申し上げます。

 昨年のクリスマスからゆっくりと休む暇がありませんでした。しかし、めちゃくちゃに忙しいということでもないのですが、ただ、クリスマス後に、地域の歳末時別警戒で五日連続の夜警が続き、新年礼拝、主日礼拝、そして会員の方が召されるということが続き、葬儀か終わった日の夕方から、汚い話しですが、腹痛も何もないのに下痢が急に起こり、水が出っぱしということになりました。やっと止まったのですが、翌日、一日中、倦怠感と脱力感が残りました。ひょっとしてカゼなのかもしれないが、とにかく体力が落ちたのを肌で感じる年始めとなりました。

 召された方は私の一つ上でしたので、若くして召されました。ご本人は自分が死ぬことが分かっていての半年の闘病生活でした。そんな彼と関わってきましたが、自らの死を見つめると言うのは厳しいものがあります。

 私は一つ言いたいのだが、“心のケアはどうなっているのか”と、積極的な病院からのアプローチがあってもいいのではないかと思います。時間がない、人員がない、多分、色々な理由があるのだろうと思いますが、でも、所詮、患者は受け身なのだ。医療として大きな問題があるように思う。言い訳にはならないと思う。お医者さんが言われたそうだ、“余り考えないように”。そんな馬鹿な話しはない。考えるなというほうが無理だ。そこに手を差し伸べるのが医療ではないのかと思う。

 でも、彼が神を知り、信仰が与えらていたことは、何か準備がなされていたようにも感じます。信仰生活は、一年ほどの短い間で、その半分が闘病であった。でも彼はよく病と闘った。その身は朽ちたとしても、今は神と共におられる。

 彼は、昔、子供のころであるが私たちの教会に来ていました。あることをきっかけに来られるようになったのですが、義理の兄がキリスト者ということで、“教会に行きたい”ということで相談され、近くの私たちのところへとお兄さんと一緒に来られた。これも子どものころに教会に行っていた、ということが影響している。その問題も解決されて教会生活が始まったのです。人はどんなことで導かれるかわかりませんね。ですから、どんな小さな働きでも行う意味がありますね。

 彼の性格はひょうきんなところがありまして、病の中にありましても、それをひょうきんに表現するのです。本当に楽しい人でした。その人の人柄というのでしょうか。

 別の話しになりますが、ある人がこんなことを言ったと聞きました。“私は人から怖い人だと思われているようだけれでも、本当は違うので、これから優しく人と思われるようにしようと思っているのですよ”というようなことを言われたそうだ。その方もきっと気にしていたのでしょう。でも“人から怖い人”と思われてきたということは、当然、そのような印象を人に強く与えて来たということですから、その人の人柄なのだと思います。それを優しく見せる、できるかも知れませんが、でも、表面的にいくら変えても、本質は変わらないものだ。その人らしく、そこに味が出てくるのだと思います。

 私も今年60歳、いまさら変化を求められる年でもないし、体力も気力も以前のようにはいかない。しかし、それなりに磨きをかけたいと思っていするが、ただ、神の憐れみによるのだなぁ~ということを改めて思う。ただ、地道に一つ一つやるしかない、神を信じて。

 年の初めにしては、どうも大したことは書けませんでしたね。

投稿者: 日時: 2010年01月07日(木) 16:39