2009年12月のアーカイブ

交わりの中で

 教会のクリスマス祝会も20日の夜に終わりました。昨年と同じぐらいの方々が来てくださって、一緒にイエス様の誕生をお祝いしました。教会にとってクリスマスは大きなイベントですが、本来、教会にとって重要なのは、普段の礼拝、その積み重ねですね。“教会ってどんなところだろう”ということを確かめるには、やはり中に入ってみないと分かりません。確かに見た目も大切で、“見た目にも美味しそう”という表現がなされるように、見た目も大切。しかし、実際の味を食べないと分かりません。見た目に誤魔化されることは多いのです。

 “教会”という言葉、“エクレシア”というギリシャ語が元々の言葉です。この言葉の意味は“呼び集められた者”ということで、誰に呼び出されたのかというと、神様に呼び出された者たちということですね。その者たちによって構成されているのが“教会”ということですね。ですから日本語からイメージされることとは少しニュアンスが違ってくるでしょう。むろん“教会堂”という建物を意味しているのではありません。要するに“キリスト者という人たちの集り”、それを教会と呼んでいるのです。

 この東鳴尾ルーテル教会、“ルーテル”というのは人の名前で、一般的には“マルティン・ルター”ということで知られています。ルターのドイツ語読みが“ルーテル”ですね。1517年に宗教改革が起こり、ローマ・カトリック教会から分かれていきますが、その信仰の流れの中にあるのが私たちの教会です。その私たちの教会が属してい教団の名前に“フェローシップ”という言葉がついています。この言葉の意味は“交わり”ということてです。

 ですから教会というのは、平たく言えば“人の交わり”ということですね。一口で“交わり”と言っても侮るなかれ。この“交わり”という営みの中で信仰の何たるかが教えられるのである。

 皆さんは鏡に映っている自分の顔をじっくり見ることがありますか。その時の体調が顔に現れていることがあります。目の周りにくまが出て聞いたり、肌が荒れていたり、様々な自分の今の状態が見えてきます。そのように教会というところは、他者との関係の中で自分を教えられるのです。いや、こう言った方がいいかも知れない。意識して自分の顔を見ないと見えてこない。そこが重要なのだと思います。

 自分の人との関わり方、他者に対するものの言い方、年上、年下、男性、女性、・・・様々な社会的な立場の人たち、色んな性格の人、そんな人たちが教会におられるので、その人たちと自分がどのような関わり方をしているのか、じっくり吟味してみると、何となく自分と言う人間が見えてくるように思う。人間関係でとらぶったとき、自分はどんな反応をしたのか。色々と教えられる。

 飲み込んで治めてしまう、ということもあるだろう。だが、そんな時は、心の中で叫んでいる、自分の正当性を。そんな自分にイエスは声をかけられる。“貴方がそんなに正しいと言うならば、私はもっと正しい”と、十字架のイエスは語られる。そのトラブルの中にイエスを姿を見ることができたらと言うか、なかなかそうはいかないが、信仰者ならば少し意識して見てはどうだろうか。

 “交わり”というのは綺麗に聞こえるが、そう単純ではない。でも、これが人間を鍛えてくれるし、更に信仰も磨くことができる。それも本人次第だか。去ることはいつでもできる。しかしちっょとそこに踏ん張ってみる。教会ということだけに限らないと思う。仕事や様々な活動にも言えることです。

投稿者: 日時: 15:50 |

クリスマスとサンタクロース

 日本で一番最初のクリスマスはいつだろう。キリスト教を伝えたのがザビエル、彼が日本に来たのが1549年のことです。どのようにしてその時、彼らはクリスマスをお祝いしたのだろうか、様々に想像をかきたてられるが、記録上で最初にクリスマスをお祝いしたのが1552年、山口でのことです。大内義隆のもとである。おそらくサンタクロースはいなかっただろうと思いますが、貧しい人々に施しがなされたそうです。

 また、1566年には長崎の大村でクリスマスがお祝いされて二千人の人が集まったと言います。キリシタンばかりではなくて、近隣の人々も集まったと言います。当時の大名は、大村純忠でした。府内(大分)のクリスマスでは、降誕劇も演じられていたといいます。九州では盛んなクリスマスが祝われていたようです。

 徳川幕府の時代になると徹底的に弾圧されたのでクリスマスもどのように隠れキリシタンたちによって祝われたのか分かりませんが、長崎の出島においては、「阿蘭陀冬至」と称して、ひっそりとクリスマスが祝われ、出島に出入りを許されていた日本人も招かれていたようだ。

 今日のクリスマスとは言えばサンタクロースですが、よく分かりませんが、サンタクロースの起源は聖ニコラウスと言われています。彼は270年ごろに生れたようで、後に司教になりますが、325年のニケア公会議に出席していたとも言われています。サンタクロースの赤い服は司教の服からきていると言われています。彼には色んな伝説があるのですが、彼の棺から流れ出た水はあらゆる病気に効くということです。そのニコラウス信仰が民衆のなかに根付き、宗教改革の後にも根強く残ったと言われています。

 プロテスタント教会は聖人信仰を否定していまするのですが、しかし人々は12月6日は、贈り物などをして聖ニコラウスの日をお祝いしたようです。それでおそらく、聖人信仰を避けるために徐々に、聖ニコラウスのお祝いが、サンタクロースへと自然な形で移り変わっていったのではないかとも言われています。

 ても、まあ、クリスマスにサンタクロースを思い起こすというのは何か意味があるように思います。サンタクロースの存在を信じているのは、おそらく幼い子供だけであろう。それもしばらくすると、お父さんやお母さんがサンタクロースだったと知るようになるのです。サンタクロースの存在を信じている者は一人もいない。でも、その存在を否定してもサンタクロースはやはり存在しているのだ。

 サンタクロースをクリスマスに思い起こすと言うことは、目に見える世界だけがすべてではない、それだけが真実ではないということを私たちに教えてくれているのです。科学によって証明できるものだけが真実、確かにそうでしょう。しかしそれを超えているものがある。人には見えない世界があることを私たちに教えてくれる、それがクリスマスです。そしてそこに夢と希望が見えてくるのではないか。

投稿者: 日時: 22:40 |