東山魁夷という日本画家がいます。香川県坂出市にその「東山魁夷せとうち美術館」というのがあり、東山画伯の絵画を多く所蔵されています。彼については多くを知りませんが、“道”とか“馬”とかを多く描いています。1950年の作品に“道”というのがありますが、その作品について東山画伯は、次のようなコメントを書いています。「夏の早朝の草原の中に、一すじの道がある。遍歴の果てに、新しく始まる道、絶望と希望が織り交ぜられた心の道」とです。

 東山画伯は、1908年に生まれ、1926年に東京美術学校の日本画科に入学し、さらに後に、洋画の研究のためにドイツのベルリン大学に留学しています。帰国後、国土会を結成し、戦後は、“残照”で日展において特選に選ばれています。その後、芸術院賞なども受けて風景画家としての地位を固めました。そして1999年に没しています。輝かしい経歴の持ち主であります。しかし自らの画風というものを確立していくために様々なものを求めてこられたのかも知れません。

 先の“道”についての画伯のコメントは彼自身のことなのかも知れません。今、祈祷会で新約聖書のマタイ福音書の中から“主の祈り”について学んでいます。その六番目の祈りの言葉ですが、「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」というものです。カルヴァンがこの六番目の祈りについて、「私たちが誘惑にあわないように悪い者から救ってください」と読むべきだと言っています。アウグスティヌスも同じ理解をしているようです。このように理解をしますと、この主の祈りの六番目は、人間の弱さについての祈りだといえます。そしてこの祈りは、その弱さを持っている人間が、神の導きと守りを願っているもので、

 東山画伯が何かを求めてきたであろうその姿を推測して、それを「夏の早朝の草原の中に、一すじの道がある。遍歴の果てに、新しく始まる道、絶望と希望が織り交ぜられた心の道」という言葉に見て取ったのですが、その理解は間違っているのかも知れませんが、ともかくも人間というものは、迷うものです。それを弱さといえるのではないか。だからこそ、イエスが“このようにして祈りなさい”と言って弟子たちたに祈りを教えられたのです。人間というものはなかなか“これが私の道”だと見出すに至るのに時間がかかるものです。時には、それを見いだせずに、迷いの中に世を去る者もいます。

 いつだったか、東京大学の応援団の話をテレビで見ました。東大の野球部は大変弱くって勝ったことがありません。応援団長が団員に言いました、“野球部が勝てないのは、われわれの応援が足りないからだ”と。そのように言って鼓舞していましたが、野球部が弱いのは、彼らの技量が足りないからで、決して応援が足りないからではないのだが、本当にそう思っているのか。信じているのか。もしそうだとすると、これをマインドコントロールというのではないかと思う。そうも言わないと団員は鼓舞できないのだが。団長の目つきはなかなか鋭いものがありました。

 そういう“道”の探し方ではなくて、神と対話をしながら、聖書を読み、祈り、考え、求める。世の喧騒の中ではなく、心静かに腕をくむ中に“道”が見えてくるのかも知れません。東山魁夷の描いた“道”は青森県八戸市の種差海岸を描いているのですが、画面の中央に一本の道が通り、その道は坂の上で切れている、そしてその向こうに海が広がっているのである。何か静かで、穏やかである。

投稿者: 日時: 2009年08月13日(木) 15:38