アディクション

 保護司の研修会がありまして、講師としてNPO法人で薬物依存支援センター「ダルク」“drag addiction rehabilitation center”というのがありますが、その大阪支援センターの施設長の“倉田めば”という方でした。この方は、外郭団体「フリーダム」を作られて、薬物依存者の家族の支援活動もしておられます。

 私は、保護司をしていて様々な方と出会い、またこのようにして普段なら余り知ることはないだろうと思われることについても学ぶ機会が与えられて感謝なことです。そうした中で、牧師として“福音”のもっている意味や意義を改めて考えさせられます。

 “アディクション”という言葉が上記の支援センターの名前の中に出ていますが、日本語では「嗜癖」といいます。それを引き起こしていくものに、酒、ニコチン、カフェン、ドラック、薬、食べ物、過食、拒食、ダイエット、ショッピング、仕事、スポーツ、ギャンブル、カルト集団、ケーム、パソコン、虐待、恋愛、性、家族、異性など、そのほかにも挙げることが出来ると思いますが、ここに挙げているものは、その物事体が依存症を生み出していく力があるもの、例えば、酒やニコチン、薬物などがありますが、しかし、お酒をたしなむ人たちは多いわけで、その人たちがお酒に依存しているとは言えません。ですから、やはり依存を生んでいくのは、その人自身の問題が大きいわけであります。

 “倉田めば”という方は、著書「薬物依存からの回復」という中で語っておられることですが、14歳からシンナーを吸い始めたようで、もともと優れた方で、そこからドロップアウトをしたいということで始めたのが、30歳ごろまで続けることになるのです。しかしその後、回復されて、今では支援者として活躍しておられます。ルカ22章32節「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」という御言葉を思い起こします。

 なぜ、人はアディクションを起こすかというと、心の「安定」を得るためだと言えます。私は、倉田さんのお話しを聞きながら、感じたことの一つは、“誰しもこの依存性というのは持っている”、そのように思いました。私は本が好きです。なかなかゆっくりと読書する暇はないのですが、それも心の安定を得るための一つなのかも知れません。

 聖書は、“人は神のかたちに似せて造られた”と証言していますが、あるいはギリシャ語で人間を“アントロポス”と言い、「上を仰ぐ」という意味があるそうで。そんなことを考えると、人間を超えた存在に繋がりたい、そうすることによって平安を得る、そんな願望というものが、人間の魂の奥の奥に備わっているのではないかと思われるのです。その繋がる相手を間違えるとおおごとになるわけです。

 だとすると、ヨハネ伝15章1節~2節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と語られているように、イエスに繋がって生きる、信仰を明確に持って生きることが正常な人間の姿ではないのかと思います。

 最近、景気悪化のために自殺者が増えているとニュースで報道されていますが、先進国の中でも日本は自殺者が多いといわれています。どうしてなのか。私は学問的に研究したわけではないので、“こうです”とはいえませんが、牧師として言えるのは、日本人は、初詣などなは何十万人という人は出かけますが、“日常を信仰によって生きている”という人は少ないと思います。仏教国ともいわれるが本当にそう言えるのか、疑わしいと思います。

 私が、教会総会の時に挨拶の御言葉として選んだものですが、詩編37編3節~4節「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」。この御言葉がとても大事だと思えてならないのです。

投稿者: 日時: 2009年02月23日(月) 15:06