暗闇の中でも

 キリシタン研究と言えば、それ自体で完結していたのが、今では日本の歴史の中にキリシタン史を位置付け、その意義・意味が研究されています。あるいは美術史とか音楽史、そうした視点からもキリシタン史が見直されたりしています。そうした中で最近出版された一つに「キリシタン禁制の地域的展開」という書物で、これは著者・村井氏の博士論文がもとになったものです。筆者は、興味深く読んでいまして、一つ感じたところを書きますと。

 幕府のキリシタン政策の大きな転換点となったのが“天草・島原の一揆”であったと思います。これを境にして“キリシタン宗門改役”という専門部門が幕府の中に設けられ、最初の改役として井上政重が任じられています。彼はもと大目付という立場でキリシタン禁制に関わっていたのです。

 当初、藩によってキリシタンに対する取り組み方が異なっていたようです。以前、キリシタン大名の大友領であった豊後などでは、徳川時代には小さな藩に分かれていましたが、大変厳しくキリシタンを取り締まっていました。おそらく、幕府との繋がりを意識してのことでしょう。しかし北の松前藩などは、“ここは日本にあらず”などと言って、禁制下においてもキリシタン宣教師の布教を許していました。各地から金工夫としてキリシタンたちが流入していたようです。また徳川御三家である尾張藩もキリシタンを積極的に取り締まりませんでした。藩の“仕置き権”を放棄していたと言えます。捕縛はするのですが、それは幕府の主導的な働きにおいてであります。

 それが“キリシタン宗門改役”が生まれてから変わっていきます。各藩のキリシタン政策に積極的に介入していきます。そして各藩に“キリシタン改役”を作らせていきます。そして幕府の“キリシタン宗門改役”に、各藩は、隠れキリシタンが露顕したときに取り扱い方の指示を仰いでいるのです。時には老中の指示まで仰いでいます。要するに幕府はキリシタン取り締まりという口実のもとに中央集権制を強化していっているのです。幕府は取り締まったのはキリシタンだけでなく、檀家制度を確立していきますが、仏教に対しても、信徒の宗教的な集まりに僧侶の出席を禁じたり、国を越えて僧侶間の交流を禁じて、信仰を深化させることを妨げています。

 論文の中に“備前国切支丹帳”に記された一キリシタンの“佐伯村与二右衛門”という男の話しが出てくるが、妻も子供も獄死し、そうした中で彼は、一度は信仰を捨てたものの立ち返ります。そのことが幕府に報告され、取り扱い方を仰いでいます。幕府はキリシタンの信仰を恐れたのではなくて、権力を強化するために利用した、それだけのことのようにすら思えてきます。その陰で多くの人々の人生がめちゃくちゃにされ、命まで奪われていった。そんなことがあっていいのかと思うのだが。しかしそんな中にあっても信仰に生きようとした人々がいたのです。

 今も変わらないものを見るような気がしますが、闇の中でキリストの福音がどれだけの希望と勇気と慰めを与えたことだろう。

 話しは変わるが、手塚治虫の作品に「鉄腕アトム」があるが、もの物語の始まりは、ある科学者の子供が交通事故で亡くなり、悲しんだ父親はその子どもの代わりに少年のロボットを作る。当初は喜んでいたが、成長しないロボットに腹を立て、いじめ、ついにサーカスに売ってしまう。そのロボットが御茶ノ水博士と出会い“鉄腕アトム”として出発していきます。アトムは悲しい過去を引きずりながらも、たくましく生きていきます。手塚治虫は「ムウ」「ブラックジャック」という作品もそうですが、人間の闇の分部にメスを入れた作品を書いています。

 たくましく、図太く生きたいものだ。

投稿者: 日時: 2009年02月09日(月) 23:17