因果応報

 岩波書店から出ている雑誌「図書」に載っていたことですが、一部紹介をしたいと思います。

 「情けは人のためならず」という言葉がありますが、最近の若い人たちは「情けは人のなめにならず」と「に」を入れて読むのだそうです。間に「に」を入れると意味がまったく変わってしまいます。ですから、今の若い人たちは、“一時的な情けというのは、その人のためにはならない”と理解するわけです。しかし、この理解はなかなか面白いと思いますし、言わんとするところは人を納得させます。説得力をもっています。

 しかし「情けは人のためならず」のもともとの意味は、“人に情けをかけていたら、いつか巡り巡って自分に返ってくる”という意味です。因果応報ということです。この言葉の背景には仏教思想があるようで、「善因楽果・悪因苦果」というところから来ているようです。著者曰く、“人に親切にする時ぐらい報いを考えずにしたいもの”ということですが。人間という者は、「報い」がなければ「神も仏もあるものか」と思う者です。著者によると、ブータン王国の人たちは、この仏の報いを長いスパーンで、それこそ地上のことだけでなく、来世をも含めて考えているので、日本人のように短いスパーンで仏の報いを考えていないので、「神も仏もあるものか」とはならないそうだが。しかしいずれにしても「報い」を求める、それが動機となっている行動には変わりがない。

 この「因果応報」、“こうすれば、こうなる”、要するに律法主義ということになるのではないかと思うのですが。この考え方は、仏教に限らず、聖書の中に登場する人たち、例えば、弟子たちにも見られます。ヨハネ伝9章で、生まれつき盲人の癒しが行なわれますが、その際、弟子たちは、生まれつきの盲人を見て、「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」とイエスに質問をしていますが、これって「悪因苦果」という考え方ですね。

 だとすると、「因果応報」という考え方というのは、民族を越え、宗教を越えて人間が共通に持っているものなのかも知れません。だとすると、この思想というのはどこから生まれてくるのだろうか。どこから来るのだろうかと思います。キリスト教的に言えば「原罪」のなしうることだと言えるでしょう。

 主イエスは、“自分を愛するように隣人を愛せよ”と言われ、更には“汝の敵を愛せよ”とまで言われました。この勧めの背後には報いを求める思いはありません。この行動の動機となっているのは、主イエスが、まさにそのように、私たちの隣人となり、いや、聖書には、私たちがまだ「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」とまで書いています。この神の愛が根底にあるのです。

 と、しますと、私たちの中から沸いてくるような愛ではありません。人間の外から与えられる、差し込んでくる光のような神の愛です。それが人間の中に差し込んでくる時、人は大きく変えられていく。それが聖書のメッセージです。

投稿者: 日時: 2009年02月02日(月) 23:14