2008年07月のアーカイブ

些細なことから

 今年も夏期キャンプが無事に終わりました。近隣の子供たちが参加をして楽しい一泊二日でした。教師も年を重ねてきて大変ですが、しかし今年は高校生や大学生も手伝ってくれて、大変助かりました。写真は、教会の近くにある武庫川で花火とその翌朝、散策しているところです、前夜に花火をしたのでゴミは落ちていないだろうかと、捜しているのです。私たちはきっちりとゴミを拾って帰っていますので、朝見ても私たちのゴミはありませんでした。ただ、私たちと同じ頃に花火をしていた人たちのゴミが少し落ちていました。ささいなことですが、恐らく普段、子供たちも朝に武庫川のゴミ拾いをすることはないだろうと思いますが、このような小さなことも子供たちの心に一つの印象として残り、他者への気遣い,環境への気遣い、そんな思い養っていく一つの糧にもなろうかと思います。

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 些細なことといえば、そのものは些細なことではないのですが、西宮保護司会の働きかけで、鳴尾東及び高須の青少年愛護協議会で、「公開ケース研究会」というものを行いました。保護観察になった少女の事例を取り上げて、地域の中でその子供が立ち直っていくためにどんなことが出来るのだろうか、また事件に至らないためにどんなことができただろうかと、そんなことについてグループに別れ、短い時間でしたが話し合いました。基本は家庭ですが、その家庭を支えられていくために地域の人と人とのつながりが大きな意味をもってくるように思います。それは普段の小さなこと、挨拶から始まっていくような気がします。そういう意味でも私たちの教会で行われている夏のキャンプだとか、こひつじ園、ケーキ教室などの活動は地域づくりに寄与していると思います。気軽に相談できる、話しが出来る、そんな雰囲気が大事なように思います。

 聖書に、例えば、マタイによる福音書18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉があります。ここの「二人または三人」というのは他人の集まりで、ただ、「私の名によって」という共通性はありますが、その人が交わりをもつことの大切さを説いています。そしてそのところに私(イエス)も一緒にいると言われて、交わりが豊かさをもって展開していくことを示唆しています。この言葉に見られるように、キリスト教会は交わり、関係の大切さを説いています。人を孤立させてはいけない、ということでしょう。本当に活きた交わりがあれば、未然に防げる問題もあるでしょうし、一人一人の居場所ともなり、安心してくつろげる場所ともなっていきます。それが今の時代、社会には必要のような気がします。

投稿者: 日時: 14:27 |

「味わう」ということ

 花火の季節となりました。その花火の老舗である「鍵屋」の第15代目を女性が継いだということで注目されていますが、彼女の話しによりますと、以前に比べて最近の花火の味わい方が変わってきたと言います。以前は、花火が打ち上げられて、ヒュルヒュルといって昇って、そしてパッと花火が破裂して綺麗な花が開きます。その全体を味わう、そこにはワビ・サビというものがあるわけですが、そのような味わい方をしていたというのです。最近では、むしろ打ち上げられた花火の華やかさを味わうというものだそうです。どちらにも花火の良さがあると思います。


 次の主日は、今、牧師按手の手続き中の先生の説教審査があり、その先生が奉仕する教会に行くのですが。

こんな先生がおられると聞きました。その方は、弱視で、説教の全部の原稿を書かれるということです。そして説教中は、ずーっと下を向いて原稿を読まれるそうです。いわば朗読説教といったらいいのでしょうか。しかしただ読んでいるだけではなく、その中に登場してきた人たちが互いに会話をする場面があったりして、変化に富み、内容もあり、なかなか聞かせるということです。その先生の説教が聞きたくてわざわざ遠くからやってくる人もいると言います。

 私が神学生時代、奉仕をした教会の宣教師が、よく「アイコンタクト」と言っていました。ちなみに私も弱視なのですが。そのことは大切だと思います。下を向き続けるよりも、顔をあげて説教をしたほうがよいに決まっています。しかし、説教とは、聞かせるものだろうと思います。それぞれの先生の、それぞれの聖書の切り口、語り口があり、そこにその先生なりの味があります。その味を味わうことができたら素晴らしいと思います。そうなれば、下を向いたまま読み続けるのも、一つの味になるのかも知れません。


 今、礼拝でルカ伝を連続的に学んでいます。この日曜日は、長く出血が止まらない女の物語でした。彼女は群集の中に紛れ込んで、イエス様の服の房に触れれば、癒していただけると信じて、後ろからこっそりと近づきました。彼女にはそうする理由があったのですが。しかしこの女の物語の直前に、ユダヤ教の会堂長ヤイロの娘が死にかけているということで、公然と人々の前でヤイロはイエス様の前にひれ伏して癒しを願いました。

 信仰とは、恵みを与えてくださる方として存在しているイエス様と私を結びつける手ですが、その信仰の手の働かし方には色々とあるようです。公然とひれ伏す人、ひっそりと近づく人、どちらに対してもイエス様は恵みをくださいました。どのような形であれ、水がどのような形の器にも入り込むように、イエス様の命の泉から溢れ出る恵みは、どのような信仰の形であったとしても答えてくださるのでしょう。

投稿者: 日時: 15:24 |

キリストと結びつく

 カール・ヒルティの言葉
「キリスト教信仰とは健全な神秘主義以外の何者でもない」

 神秘主義というのは、信じている者と、信じられている神とが一体となる境地を言います。つまりキリストと一体になる、一つに結び付き合うということです。そのような境地を表します。この神秘主義がキリスト教信仰の中心になければならないとヒルティは考えています。そんな境地になってみたいものです。そうすれば強い信仰をもてるかもしれない、と人は考えるかも知れません。

 ヨーロッパではキリスト教に座禅が取り入れられている、そのようなところもあるようです。それもキリストとの一体感を得るためでしょうか。確かに座禅をして神がわかった、という人もいるようですが、どうなのでしょうか。ただヒルティは「健全な神秘主義」と言っています。

 パウロはガラテヤ2章20節で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と言っています。これがヒルティの言うところの「健全な神秘主義」だろうと思います。パウロとキリストが見事に一体となっています。素晴らしいと思います。しかし果たして私はそこまでいけるのだろうかとも思ってしまいますが、ともかくここにキリスト教になくてはならない、信じる者と信じられる者との一体となった姿があります。どうすればそうのようになれるのでしょうか。

 パウロはなんと言っているでしょうか。20節の後半「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。ここでパウロが、キリストがパウロのために「身を献げられた」という言葉に注目しなければなりません。この言葉と結びついていないキリストとの一体感というものは、不健全なものになってしまうのです。つまり十字架の出来事です。キリストがご自身を棄てて十字架につかれたということです。この十字架と結びついていなければキリストと一つになるということも意味がないのです。

 キリストの十字架はどうして起こったのでしょうか。一言でいえば罪の赦しのために起こったのです。私の罪の赦しのためにキリストは十字架にご自身を棄てられたのです。それによって神が再び人間と和解を取り戻そうとされたのです。そのためにキリストはしなれたのです。そのキリストの死によって人はキリストと一体感を得ることが出来るのです。神と調和が保たれているのです。ですからそのキリストの死を無駄にしてはならないのです。パウロが、キリストが私のために死んだというところに、健全な神秘主義があるのです。

 では、どうすれば健全な神秘主義とやらを得られるのか、「私のための十字架」ということを思い巡らすことです。これを抜きにして考えてはならないのです。それ以外のところでは律法主義となり、キリストの死を無駄にしてしまいます。パウロは次のように言っています。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています」とです。パウロはキリストと見事な一体感を得ることが出来ました。同じように私たちもキリストと一つにされていると言うことができるのです。なぜなら、キリストがパウロのために死なれたように、私たちのためにも死なれたからです。ですから「共に」とあるのです。そこで私たちは強いのです。

投稿者: 日時: 23:59 |