2008年06月のアーカイブ

福音の具現化を願って

 二週間ほど前でしょうか、あるテレビ番組で性同一性障害をもった一人の方、実際のお話しを物語風にして行っていました。その方にとって最も近い存在である家族、両親や妹からも理解されず、受け入れられず、しまいには行って葉ならない言葉「気持ちが悪いのよ」とまでいわれてしまう。家を出て一人暮らしを始めていくことになりますが、見ていて色々と考えさせられました。今はご両親の理解を得られておられるようですが。

 キリスト教界がどのような考えをもっているのか、様々だと思いますが、一つには「創造の秩序」に反するのではないか、という意見があるでしょう。確かに神は男と女とに、心と肉体とが一体として創造をされた。しかしその心と肉体が異なってしまうのです。その障害は精神療法でどうにかなるものではない。不可逆的なものです。それを創造の秩序に反するというならば、私は先天性の弱視です。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と書いています。この「極めて良かった」という言葉は、単純に考えて、形もすべて良かったということになると、私も障害をもって生まれてきたということは、創造の秩序に反しているということになるのではないかと思います。いや、もっと言えば、もっと言えばすべての人間は創造の秩序に反していると言えるのではないか。なぜなら人は罪を抱え持っているからです。神が創造された時、そこには罪はなかったでしょう。アダムに罪が入ったその時から、人は神の創造の秩序に反しているのです。しかしそれを超えてイエス・キリストが地上に来られ、その創造の秩序に反する人間を受け入れ、赦すべく十字架の上にあがられたのです。

 祈祷会でガラテヤ書を学びはじめていますが、そのガラテヤ教会に起こっている問題は、異邦人キリスト者はユダヤ人にならなければ救われない、即ち彼らのしるしである割礼を受けなければならない、ということを要求するユダヤ人キリスト者が現われたことです。その彼らの主張をパウロは、「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていな」と判断しました。パウロは単に民族差別だと捉えるのではなくて、福音の真理に反していると捉えるわけです。世の中には様々な差別があります。それは単なる差別問題ではなくて、神の真理に反することだということを私たちは認識しなければならないと思います。それは福音が立つか倒れるかの問題にまで通じるものだからです。

 聖学院大学の土戸清氏がある書物の中で次のように言われています。
「イエスは人間存在そのものの普遍的な価値や尊厳を問題にしているのであって、一民族や一国家の優位や劣等などを全く問題にしていないということです。ここからキリスト教がスタートしているわけですから、もし、私たちキリスト教がわに、そういう観点から異なる民族、異なる国家、異なる思想を持つ者を差別する思いがあるならば、それは聖書の思想、とりわけ、イエスの教えに起源するものではないといえるのです。『自分と異なる価値観や世界観を持っている者がいたとしても、それを選び取る権利は、その人にあるのだということを、承認するように』というのがイエスの精神だからです。それゆえキリスト教から反セム主義や反ユダヤ主義は出るはずがないのです。もしそのようなキリスト教思想が存在するとしたら、たとえそれがキリスト教の名でおこなわれるとしていても、それは既にキリスト教ではない一つの思想運動であり、ひとつのイデオロギー化している宗教思想に過ぎないということです」とです。

 私たちの教会の交わりの中に様々な障害を負っておられる方々がおられることは、福音を具現化していく、素晴らしい機会が与えられているということではないかと思っています。「人格とは決して他の目的に役立つ手段として利用価値によって判断されてはならず、それ自体が目的として扱われねばならないもののことである」。これはカントの人格の定義ですが、福音を啓示されたということは、人間を人格として扱われるということです。私たちの何かではなく、それとは別に愛の対象としてくださるのです。

投稿者: 日時: 22:09 |

真理と現実の間で

 こんな話しがあります。
 曹洞宗の開祖、道元から四代目になりますが、紹瑾(じょうきん・1268年~1325年)という一がいましたが、彼は27歳にして悟に達したといいます。その時の様子ですが以下のようであったと言われます。

 彼は自分の師匠・徹通義介和尚(てっつうぎかい)が、趙州和尚の「平常心是道」というのを提唱するのを聞いて悟りを開いたというわけですが、それで徹通義介和尚は次のように問います。
義介 「お前は、どのように会得したというのか」
紹瑾 「黒うるしのコンロン産の真っ黒な玉が、真っ暗な夜の闇を疾走している」
この意味は、一切のものが消えて、見る者も見られる物も存在しない。即ち「真の世界」を見たというわけです。しかし徹通義介和尚はそれだけでは承服しません。
義介 「まだ駄目だ、さらにもう一句言え」
紹瑾は、さらに参院を重ねた後、
紹瑾 「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」と答えます。
徹通義介和尚から許可を得ます。

 真なる世界を見るだけでは不十分なのです。「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」という世界が見えなければなりません。真なる世界に生きるとは、同時に現象の世界に生きることです。

 哲学者の三木清(1897年~1945年)が、その晩年に、哲学をする者は、「諸君がもし自然科学の学徒であるならその自然科学を、もし社会科学を、更にもし歴史の研究者であるならその歴史額を、あるいはもし芸術の愛好者であるならその芸術を手懸りにしてそこに出会う問題を捉えて、哲学を勉強していくことである」と語っています。哲学とは真なるものを求めるのですが、しかし、今、自分が生きている現実の世界の中で、そのことの中で哲学をすることを求めているのです。

 パウロは、ローマ12:1~2で、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と語っています。
 私たちは、今、私たちが生かされている現実の日常生活の中で信仰に生きることが求められています。様々な問題や課題に出会うであろう、そこで何が神の御心に添うことになるのか、ならないのか、それを祈り求めながら歩む、それが信仰者です。確かにそこに戦いもあり、苦しみもあるでしょう。ルターは苦難が神学者を作ると言ったそうですが、別に神学者になる必要はありませんが、しかし、聖書の言葉によってこの現実の世界、日々の私たちの営みを捉え直していくことが大切です。あなたことが真の神学者かも?

 確かに、外来の宗教である仏教が根付いたのは国教化された歴史があるからだとも言えますが、しかしその間に人々の中に、様々な生活の営みを通して仏教思想が入り込んでいったのです。聖書の教えがみの地にも根付くことを願いますが、その担い手は一人一人のキリスト者でしょう。

投稿者: 日時: 14:25 |

弱さも財産?

 私は評論家めいたことは書きたくはないのですが、東京の秋葉原で悲惨な事件が起きました。ニュースを聞くと、人間としてこんなことが出来るのかと、深い恐怖を覚えましたが。その犯人が書き残した言葉が気になりました。「私を必要としている者はいない」とか「死ねないから、ただ生きているだけ」という言葉です。孤独感と疎外感、そして「むなしさ病」を持っていたことがわかります。そして自分の存在を、このような事件を起こして世に示そうとしているとも言われたりしています。

 そこで、私は、精神科医の香山リカ氏のある著書を思い起こしました。ざっと読んだ本ですが、そこに次のようなことが書いてありました。「オウム真理教」の地下鉄サリン事件を起こしました彼らについてです。彼らは一流大学を出た弁護士であり、医師であり、技術者でした。「他人と違う自分でありたい」「自分にしか出来ない何かをして世の中の役に立ちたい」、そんな思いで大学に入り、社会に出るが、結局は、自分は歯車のひとつにしか過ぎず、要領のいいやつだけが得をする。空しさに襲われ教団の門をたたいた。すると尊師は、「君が来るのをずっと前から待っていた」とばかりに優しく迎えられる。そしてその人のためにホーリーネームを与え、その人にしか出来ない役割を与える。すると生きることに絶望していた若者が、一転して自分のかけがえなさを実感し、この人のために生きる、ということになるというわけである。そして間違った道へと導かれていった。

 厳罰化を進めても事件は減らないように思います。孤独感と疎外感、そして「むなしさ病」をもった者が居れる雰囲気、受け入れられ認められている、そんな側面をもった社会、受け皿を持っている社会が必要ではないかと思います。

 金城学院の藤井先生が書かれた本を思い起しました。小説家の柳美里氏について書いていました。彼女はいわゆる「不良」でした。ミッションスクールに行っていましたが、「腐ったリンゴ」といわれて退学となりました。その後、ある劇団の研究生になり、その団長から「あなたの家族のことも、これまでの出来事も、人には知られたくないマイナスのことだったでしょうが。演劇をやっていくのならすべてがプラスにひっくりかえるでしょう。それはあなたの才能でありほこりにしたほうがいい」と言われ、この一言が彼女を支え、変えていきます。

 パウロは弱さをもった人でした。その弱さを消そうとするのではなく、否定するのではなく、それを神の前にさらけ出すことによって強くされた人です。いわばよわさを大切にすることによって強くされました。パウロの言葉「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(コリントⅡ 12章10節)。このように言うことが出来、弱さが彼の財産となりました。あなたにも自慢できない家族、孤独感、疎外感、知られたくない過去があるでしよう。しかしイエスに信頼して生きようとする者は、それが財産と思えるときがくるでしょう。

 スピリチュアルが流行っていますが、そこにも似たようなメッセージがあります。しかし人々は既成の宗教に行かないのは、彼らは自分に対して強い関心を持っているのですが、既成の宗教は、それに留まらず、他者と共に生きる、他者を愛するメッセージもあり、それを彼らは好まないとも言われています。果たして、ただそこに留まっていて、生きる意味、生き甲斐が見出されるのだろうか。いや、留まっておれるのだろうか。自分が受け入れられ、愛され、認められた実感をもったとき、他者に対してもそのように生き始めることになるのではないでしょうか。

投稿者: 日時: 23:44 |

神を信じる・神を感じる

 宗教学者の山折哲雄氏が多神教は感じる神、一神教は信じる神と言っている。数日前(6月30日と思うが)の読売新聞に載っていた、2008年度の宗教意識調査の結果についての解説の言葉の一部である。その結果によると、20代の中で「神を信じる」という人は14%、60代以上が41%だったと思う。ともかくも減少傾向にあるようだ。しかし初詣とか、お墓参りに行ったことのある人というのは、70㌫を越えているのである。山折氏は、そのように「矛盾」に陥っていることについて、そこで日本人は神を感じているのであって、必ずしも「信心」という心を失っているのではない。明治以降、キリスト教的な考え方を導入したことが間違いであって、改めるべだというようなことを述べている。

 確かに、神社に行って、なにを祀っているのかよく分からなくても、何となく「ありがたい」という気持ちになって手を合わすというのが日本人的な感覚なのかも知れない。どの山の道を通っても、行きつく頂上は同じ、ということになるのでしょう。ですから山折氏が言うように、日本人の行動の規範が宗教ではなくて、その人が属している組織にある、ということになってしまうのでしょうか。

 私たちプロテスタントの信仰は、聖書がすべての土台としてある。私たちの信じている神様はどのようなお方なのか、その神様を信じた私たちの生活はどうあるべきなのか、ということが大切なこととして教えられる。聖書を神の言葉として受け止め、これに聞き続けることが信仰生活の重要な部分を占めてくるのである。しかし、私は様々なキリスト者の姿を見て来ましたが、中には自分たちが信じている神の言葉だといわれる聖書に対して、実に曖昧な態度をとる人がいる。「聖書のどこどこを開いてください」と言うと、「そんなのが聖書にありましたかね」という言葉を昔に聞いたことがあり、唖然としたことがある。それは極端にしても、日々の生活の中で「聖書」を意識して生きている人がどれだけいるだろうか。思考及び行動の規範として聖書をどれだけの人が意識しているだろうか。信じる対象を明確にしていかない日本人の意識を感じることがある。

 「歌オラショ」が生月島の隠れキリシタンの間で歌い継がれてきた。以前にも書きましたように「歌オラショ」はラテン語でそのままを歌いますので、意味は隠れキリシタンたちにはまったく分からなかったでしょう。葛井義憲氏の「キリスト教土着化論~キリシタン史を背景にして」によりますと、何らかの形で紙に書かれた文書、例えば「主の祈り」でも、書いてあることが理解される文書ですが、それを持っているグループは、その信仰がまったく違ったものに変質することなく、カトリックへ戻っていくことが出来、しかしそれを持たないグループはまったく異なる宗教へと変質してしまい、カトリックに戻ることが出来なかった、としている。

 だとしますと、聖書に基づいた縦軸をしっかりと持つということが、キリスト信仰が日本に根づいていくことで重要ではないかと思う。1%を越えられないのもそこに要因の一つがあるのかも知れない。

投稿者: 日時: 11:01 |