一里塚の内容は

いよいよ2007年もあと数時間で終わり、2008年を迎えるころとなりました。「元旦や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と歌われます。

 私たちの群から一人の姉妹を御国へと、この27日にお送りしました。阪神大震災後、鳥取におられたのですが、そこで92歳で天国にいかれました。その葬儀を鳥取の教会をお借りして、行う事ができました。その教会の先生にはたいへん御世話になりました。

 主日礼拝と新年礼拝などを控えて慌しいことでしたが、でも、本当に召された姉妹が主に忠実に生きてこられた、それが証しされるような葬儀であったと思います。その方は、以前、ある大学の女子寮の舎監を10年間ほど務めておられました。よく学生の面倒を見られました。相談にのられたり指導されたり、熱心にまた誠実に関わってこられました。ですから今なお卒業生たちが、この姉妹を慕っておられて、関西からこの葬儀のため来られ、前夜式と告別式の両方に出てくださいました。あるいは昔お世話になったということで、ある牧師も主日礼拝があるというのに、関西から鳥取まで二日間にわたって来てくださいました。それだけでもその人柄がうかがわれます。

 この方は、早くご主人を亡くされて、たいへん苦労されましたが、その信仰の姿勢は「誰でも幼子のように信じなければ、神の国に入る事は出来ない」と主は言われましたが、まさにそのような信仰であったと思います。息子さんのお話しで、朝、目が覚めると、母親が、芋虫のようにくるまって祈っていたというのです。あるいは、卒業生の話しでは、前掛けをして祈られるわけですが、膝のあたりを擦りながら祈るので、前掛けの布が、その分部だけ薄くなっている、というのです。この祈りの姿勢が、困難の多い人生あったと思いますが、その信仰の生涯を全うさせたと思います。

 同じ旅人の一人であるパウロは下記のように語っています。 
テモテⅡ 4章7節~8節
「私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守りぬきました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです。しかし、私だけでなく、主がこられるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます」。
何か自慢げに聞える言葉ですが、パウロには自分の誉れを求める思いはないでしょう。しかし彼の歩いた距離というのは規格外と言っていいでしょう。その旅の危険、どれだけ多くの艱難に出会ったかについては彼の手紙の中で述べられています
コリントⅡ 11章26節~27節
「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難にあい、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え乾き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」。
ともかくもその距離をこなせたのは恵みだということです。その旅の中でパウロは、口にしたのかも知れない祈りの言葉、「私の助けはどこからくるのか」(詩編121編)。まさにこの祈りなくして、パウロの伝道の旅は、全うされなかったといえるかも知れません。

 このパウロの生き様と、何かこの姉妹の生き方が重なるところがあるように思えて仕方がありません。ともかくも大きな証しを立ててこられました。まさに使命を与えられた生涯であったと思います。

 私は前夜式と告別式の二回の説教をしましたが、息子さんやお借りした教会の牧師婦人から、「いいメッセージでした」と言っていただきました。おせいじでもなさそうでしたが、もしそうだとしますと、この召された方の生き様が主に忠実であったからだと思います。それによると思います。新しい年を迎えて、何か一里塚かも知れませんが、使命を与えられて主に仕える一年は、意味のある、そして新しい命に繋がる、素晴らしくて喜ばしい一年ではないかと思います。

投稿者: 日時: 2007年12月31日(月) 21:19