来年は鼠年

 今日は、待降節第四主日の礼拝です。いわゆるクリスマス礼拝として守る日です。その今日の夜にクリスマス祝会を私たちの教会では行います。地域の人々や以前礼拝に来られたことのある方々をお招きしているのだが、果たしてどれだけの方々が来られるのだろうか。楽しみでもありますが、気になるところです。少ないよりも多いほうがいい。一人でも多くの方々に福音に触れて欲しい、教会の門を通って欲しいと願うのがキリスト者として素直な気持である。そのために準備もし、チラシも配布や郵送をしたのです。後は神様に委ねる以外にありません。

 しかし、このクリスマスの時期は、牧師として既に頭の中を支配しているのは来年の事です。といっても、私たちの教会に与えられている賜物に応じてしか活動ができないし、それで善しとなければならない。牧師が言うのもおかしいのだが、来年は「鼠」年です。ある偉い僧侶が今年の言葉として「偽」という漢字を選んだそうですが、ネズミといえば「ねずみこう」というのがありました。親が子、子が孫をというように、それこそ「鼠算式」に金が増えていく。そんな話に、ありもしないのに欲が絡んで乗ってしまいます。

 増えて欲しいと願うのは教会も同じかも知れません。一月ごとに鼠算式に増えていけば、さて、2008年の終わりには教会の礼拝にはどれぐらいの人が集っているのか。おそらく何億、何百億になるかも知れません。しかしそうはいきません。日本の宣教が始まって、キリシタン時代も入れると何百年となるが、いまだに礼拝の出席人数は1パーセントをこえられない。怠けているわけではない。教会は一所懸命に宣教に励んできたのですが、それが許されなかったのです。「信徒の友」にそのことについて、ある牧師が、数よりもキリスト者の存在のあり方が問われているのではないかと書いていました。確かに数だけが神様の祝福ではないと思います。

 だがどうでしょうか。社会の中で、ある影響力をもつためには数も必要ではないかと思いますし、教会にある程度の会員がおられなければ経済的にもたちゆかなくなります。そのしわ寄せは牧師にいくでしょう。そのへんの大変さは、私は議長もしてきたので分るつもりです。しかし、確かに数に捕らわれていては、働きそのものがしんどくなります。やはり神様に委ね、まず感謝から始めるのが肝要だと思います。ともかくも、このような小さき者が神様の働きの一端を担わされているのですから。これは恵みです。誇りとしなければならないことです。

 さて、来年も、結果は神様にお任せして、ネズミではないですが、ちなみに私は「虎」年ですが。精一杯、福音を携えて走りまわりましょうか。年に応じてですが。あの人が、この人が洗礼を受けないか・・・・と祈りつつ。

投稿者: 日時: 2007年12月23日(日) 00:09