宣教と侵略

 ペルー・ボリビアの旅行についての三回目の話しになりますが、私の行った町は当然限られていますので、何が言えるのかと思いますが、私たちがリマで泊まったホテルの周辺の町並みと、ボリビアのコチャバンバという町で泊まったホテルの周辺の町並みやバスから見えてくる町並みなどを比べて見ますと、ペルーの町並みとボリビアの町並みとの間に大きな文化的な違いというものをあまり感じませんでした。町並みだけを見て、どちらがペルー? ボリビア・と聞かれても、私には答えられないように思います。どちらの国も国語がスペイン語で、文化圏として似ているのではないかと思います。

 ペルーで博物館を見学したが、古代においてインカ帝国に代表されるように、ペルーは高い文化をもっていた。それは展示されていた土器や織物を見ればよくわかります。今回の旅行はほとんど観光というものはありませんでしたが、よく知られているアスカの地上絵などは、高度な知識がなければあのような精密な絵は描かれないでしょう。しかしそれがスペインによって滅ぼされてしまった。そして言語も変えられスペイン語が公用語とされて久しいわけです。私は今回の旅行でペルーに関して感じたことは、文化の積み重ねがない、いや、断たれてしまったということです。古代において優れた文化を築いてきた、その名残というものを、確かに短く、サッと通り過ぎた者が何を言うかですが、感じなかったのです。

 リマで聖フランシスコ教会を見学しました。カトリックの反宗教改革運動によって南米の宣教がなされ、16世紀頃に建てられた教会のようで、文化財的にも貴重な教会のようです。何万冊という16、17世紀前後の本が保存され、今日も研究のために活用されているようです。また地下には墓があり、何万体かの人々が葬られ、今日ではそれが考古学者たちによって発掘されています。それらを見てきたわけです。またその教会には貴重な絵画も保存されています。そこで面白い絵画を見ました。ペルー人によって書かれた最後の晩餐の絵です。そこに登場するイエスや弟子たちが食している食べ物は、ペルーの食べ物です。その絵に見えてくるのは、確かに今までのペルーの文化が否定さ、ヨーロッパの文化を植え付けられるという宣教方法が取られ、またそれが定着してきました。しかしヨーロッパの文化をそのまま受け入れるのではなくて、そうした中にありましても、ペルーなりのキリスト教文化を築こうとする姿勢を、その絵の中に読み取ることが出来ました。

 この聖フランシスコ教会を見て、当時のスペインの宣教師たちがどのような宣教方法を取ったのかということがよく見えてきます。ヨーロッパのものをそのままここにもってきたという感じである。また宣教師たちがペルーの文化をどのように評価したということもよく見えてきます。福音を伝えるという聖書から言えば愛の行為であるが、しかしそれを実行する者が、上から見下ろすような姿勢で異なる文化の人々に福音を伝えていくとき、そこに悲劇を生んでしまう。確かに植民地を開拓していくという国家の思惑がそこにあったとはいえ、宣教に携わる者の姿勢が大きかったと思う。それは今日も福音のために遣わされていく者に対してある示唆を与えているように思います。

投稿者: 日時: 2007年12月03日(月) 15:49