変わること

私が卒業した神学校が創立50周年を迎え、17日に記念式典があった。200名近い人々が集まりお祝をした。懐かしくここで学んだことを思い起しながら過ごさせていただいた。50年前と言えば、私は7才、小学生である。当時、私が遊んでいた家の周辺の様子を覚えているが、今はその家もなく、まったく様子が変わってしまっている。そこには震災ということもあったのだが。それだけでなく経済状況も今日とは大きく変化をした。それだけでなく、記念講演をされた日本ルーテル神学校長の江藤師が言われていたことですが、以前は神の領域であったものが、人間の手の中にある時代、例えば、受精卵の時から生まれてくる子どもに障害のあるなしが分る。そのように変わってきた。だが「そんな時代だからこそ」と先生は言葉を繰り返され、私たちの立っているところにしっかりと立たなければならないと言われる。

 来賓の挨拶の中で神学校が変わることを求める挨拶もありましたが。確かに時代と伴に変わってきたし、これからも更に変わっていくでしょう。しかし当然のことながら、何を変え、何を変えないのかは重要です。記念講演の中で、万人祭司制について話された。ルーテル教会の主張ですが、今年、ローマ・カトリック教会で160名ほどの人々が福者に列せられたそうだ。16世紀、17世紀に日本では多くの殉教者をだした。その人たちだ。だが司祭や修道士はペテロ・岐部をはじめ5名しかいなかったという。そのほかは全て信徒であった。信徒がしっかりと信仰に生きた証しであるが、牧師の務めはこのような福音を示していける信徒を育てていく。そのような牧師を生み出していく神学校として変わるということはあるべきでしょう。

 話しは変わるが、私は日曜日の新聞で本が紹介されている欄をよくみる。16日の新聞には「暴走老人」という題の本が紹介されていた。買って読もうかとおもっているが、最近は切れる老人が増えているという。確かに老人による兇悪な犯罪も起こっている。どうしてか、激しく社会が変わっていく、それについていけないというか、適応できないというか、そういうことで孤立感を深めていくからかも知れない。中身を読んでないので分らないが、そのような社会の変化から捉えようとしているようだ。

 ともかくも変化は避けられない。ますます激しく変わるかも知れない。時代が、社会がどのように変わろうとも、あるいは自分が年とともに変わろうとも、変わることのないもの、縦の座標軸をしっかりとおもって、自分がどこに位置しているかを握っておくことが重要な時だろう思います。

 孤立化と書きましたが、孤立化は老人だけでなく、「個食」という言葉があるように、一人で食事をする子どももいるわけです。「そんな時代だからこそ」福音に「聴く」ということを教えられている私たちは、彼らの傍らにあって聴くことが社会的に求められているのかも知れない。

投稿者: 日時: 2007年09月18日(火) 14:23