無知であってはならない

最近、ギリシャ正教会の宣教師ニコライの日記が出版された。ギリシャ正教会にはあまり馴染みがない私ですが、まだ一部ですが、面白く読ませてもらった。ニコライは主教として日本の各地を巡回する。悪路の中を馬車で回ることは大変な旅であったと思われる。ミサなどの道具のために、個人的なもの、下着を含めて少なくしていたようだ。そうした彼を人々は村から何キロも歩いてニコライを出迎えに出る。それがどうもニコライには煩わしかったようだ。人々を歩かせて自分一人馬車に乗っているわけにもいかず、馬車から降りて人々とゆっくりと歩くが、雨だと道がぬかるんで大変だったようだ。その煩わしさもわかるが、当時の人々が敬意をもってニコライを迎えた気持ちが伝わった来る。そして大体、数十人程度集まる礼拝をしていたようだ。それぞれのところには伝教者と呼ばれる日本人の伝道者がいて、伝道活動をし、教会を形成していた。

 そのようなことを記しているニコライの日記ですが、きっと彼を悩ましただろうと思うが、伝道をサボっている伝教者や教会から離れていってしまう信徒のことも触れていた。教会から信徒が離れていく理由を三つ挙げている。
①無知
②不道徳
③偶像への執着
これらの事がまたキリスト教への迫害を生んでいるとのことである。

 上記の三つは今も考えなければならない課題でもあるように思う。ユダヤ人に律法が与えられていたのですが、それを彼らは外側から見て守るということを考えた。外見的には守られていることを喜び、誇りともした。しかしパウロの理解は、心の底から律法の中にあって、律法に生きるということでした。ではそこで人間である限り、そのパウロの理解に対して「我は然り」と答えられる者がいるのか。律法を与えられている私と、宗教的に敬虔に生きようとする私の間に矛盾がある、ズレがあることに気づかされる。それが罪の自覚なのかも知れない。少なくともそういう意味でユダヤ人は罪と真正面から向き合う事が許されていた。もしそうした生き方があったならば、自らを人と神の前に誇りとする罪を、異邦人を見下す過ちも犯す事はなかったかも知れませんし、更に福音と出会う契機ともなったかも知れません。

 ニコライが挙げた三つは、御言葉に対する無知というところに起因があるように思う。聖書に学び、聖書に親しみ、聖書に浸る歩みが明日の教会を造っていくのではないか。明日のキリスト者を育てていくのではないか。今日の祈祷会で、ある方が、知り合いの先生が信徒向けと思われる聖書注解書を出版されると紹介してくれましたが、説教集と注解書はなかなか売れないものだと思う。鍋谷堯爾先生が「詩編を味わう」の三巻を完結される。多くの人々に読まれることを願う。面白おかしい話しを喜ぶだけでなく、聖書の言葉が説き明かされていくことを味わい、喜びとする。そんな人が育つことを心から願う。そうでないと明日はないかもしれない。

投稿者: 日時: 2007年09月06日(木) 18:17