苦しみが命を得させる

 ロンドンでパラリンピックが始まった。障害をもった選手たちが優れた身体能力を発揮する。もし彼らが健康な肉体を持っていたら、今以上の能力を発揮し、オリンピックに出ていただろうか。必ずしもそうとは言えない。中には、スポーツと関係のない道を歩んでいた人もいただろう。障害を負うことによってスポーツに目が開かれ、パラリンピックに出場するまでになった人はきっといると思う。事故か、病気かで障害を負ったのでしょう。その苦しみについて他人がとやかく言えるものではないが、しかし必ずしも苦しみは非生産的ではない。苦しみが何かを生みだし、人間を、あるいは社会を成長させることがある。

 話しは変わるが、今、礼拝で使徒言行録を学んでいます。その2章14節に、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」という言葉があります。

 「死の苦しみ」という言葉が使われているが、この言葉に注目することが大切だと思います。弟子たちは、イエスがゲッセマネの園で十字架の死を前にして、血の汗を流すようにして祈られた。その傍らで弟子たちは、目を覚ましているようにと命じられているのにも関わらず、眠り込んでしまった。人は死の苦しみを共にすることは難しいのです。それから目をそらしたいと考えるのです。ですからキリストを本当の意味で理解する人が少ないのです。

 主の味わいたもうた死の苦しみを追体験することはできないと言ったほうがいいでしょう。しかしそれでもそれが深い苦しみであることは、分からなければなりません。この死の「苦しみ」と訳されているのは、「産みの苦しみ、陣痛」という意味の言葉のようです。だとしますと、ここは「陣痛から解放する」と訳することができます。つまり陣痛を「終わらせる」という意味になります。狭い意味での陣痛を広い意味での苦しみというように広げて、そのことから解放する、終わらせるという意味で使っていると見ることができます。

 この「苦しみ」を「陣痛」と解釈しますと、死からは何も生まれない、何も始まらない、すべてが終わってしまうと考えてしまうのですが、そうではなく、この苦しみから神は、その苦しみを終わらせて、復活を起こしてくださっているのです。まさに陣痛であります。そのように解放を知るために、苦しみを終わらせて復活を得る、陣痛を知らなければならないということです。

 主は己の十字架を負うて我に従えと言われました。彼が負われた十字架を私たちが負うことは不可能です。ですから「私の十字架を負え」とはいわれなかったのです。それと実質的にはかなり違うのですが、「あなた自身の十字架」、十字架の名に値しないけれども、十字架と呼ぶことが許されるもの、これを負って、私についてきなさいと言われました。

 キリストの苦しみを得た者は新しい命を得る。「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」と言われています。回りくどい表現ですけれども、イエスは死に捕らえられたままではおられない方だと言われています。どうしてなのか、ペトロは使徒言行録3章14節~15節でイエスに就いて次のように語ります。「聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。」とです。ここでイエスのことが「命への導き手」と表現されています。これが死のもとに服することができない理由なのです。

 この「導き手」と訳されている「アルケーゴス」という言葉は「リーダー」という軽い意味ではなくて、「源、創り出す者、作者」という意味を持っています。「命のアルケーゴス、命の源泉」である、「命の作者」であります。そういう方だから死に支配されたままではおられないのです。この「アルケーゴス」という言葉を使ってヘブライ12章2節で「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」と言われています。ここで「創始者」と訳されています。信仰を生みだし完成して下さる方です。あるいは2章10節で「救いの創始者」とも言われています。ですからイエスの死を得た者は、死の下にいることはできないのです。新しい命に与かる者とされているのです。

 苦しみから逃げてはいけない。それを負って行くのです。

投稿者: 日時: 2012年08月30日(木) 23:06