フロイス日本史

 ついこの間、「完訳フロイス日本史」という中央公論新社から2000年に出版された、文庫本ですが全12巻をまとめて買いました。以前に、中央公論社から第一期として全8巻がでていて、その一部をもっているのですが、たまに行く古本屋でも見ないので、以前から先に出たものが欲しかったのですが、文庫本も品切れになってはと思い、思い切って買いました。文庫本とはいえまとめて買うとちょっとした金額になります。ただ、私は目が悪いので文庫本は、以前のものに比べて字が小さいので、すこし読みずらい。

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 違いと言えば、先のものと文庫本とは他にも違いがあります。私としては残念に思っているのですが、文庫本のほうは注がすべて省略されている。紙面上の理由だと思うが。フロイスの記述をより深く理解するのに注はかかせない。更に括弧書きで、記述の足りないところを補っているのですが、それもできるだけ少なくしている。私としては残念! というところがあるのですが、しかし、読み物として文庫本の方がすーっと読めるような気がする。それに、ただ先に出版された本の文章をそのまま使っているのではなくて、原本にあたり、先に出たものの翻訳が間違っているところが訂正されたりしているようで、その点は嬉しいと思います。

 まあ、私は研究者ではないので、素人が好きでキリシタン史を色々と調べているだけだから、それでいいのですが、キリシタン史の教理や思想、宣教、あるいは迫害下における教会の事情、それらをトピック的に調べたりしてきたのですが、キリシタン史としての流れを見ることがなかったように思うので、特に文庫本では、先の本と異なり、年代順に並べられているので、フロイスの日本史を通してそれを見ようと思っています。

 フロイスは、1563年に来日し、秀吉の伴天連追放令により、一時的にマカオに退去しますが、再び来日し、1597年に長崎で没しています。65歳だったと思われます。およそ30年にわたって日本で宣教に従事した宣教師の記述です。しかし、彼の手によるものは残っておらず、写本しか残っていない、また一人で書いているので偏りもあるかも知れませんので、そういう意味では研究のための第一資料としては問題があるかも知れませんが、でも、当時の宣教や教会の様子を知るのに十分な資料だと思います。

 今は、畿内での宣教の様子を見ています。イエズス会は、都で宣教をしたいと考えたようで、そのためには比叡山の許可を得ないと身の安全が保障されず、宣教が難しいと聞いて、何度か比叡山に赴き、人脈を使って比叡山の座主に会おうと試みますが、なかなか会えません。そんな中、シキナイという僧を通して座主の西楽院に会えるかもしれないということが出てきた、シキナイは司祭の所に人をやってこう言わせたというのです。
「聞くところによれば、伴天連は初めて山口の町に来た時に、時の国主大内義隆殿に多大の贈物と非常に珍しい進物を携えて行ったということだ。ところで伴天連たちは、たとえ国主とはいえ一俗人に過ぎない人にさように豊富な贈物をされたのであれば、比叡山の高位の聖職者であり、内裏の近親であられる、全十六谷の大学の上長である西楽院に対しては、かならずやどれほどより多くの贈物をされることであろうか。さらに伴天連は、座主自らが接見するほどの高い名誉と顕位を博することであるし、それにいとも遠隔の地から訪ねられており、当地では一異邦人に過ぎない。それにまた日本の風習に従って座主に何か献上もしなくてはならぬ。そこで拙僧はまずもって、伴天連は彼にいったいどのような贈物を持参しているか、座主に伝える必要上前もってそれを拝見しておきたいものだ」。

 西楽院が言わせたかどうかは分かりませんが、それにしても山口のことが比叡山にまで届くとは驚きです。すべてではないのですが、仏僧の狡猾さは何度か語られます。当時、比叡山は大きな力を持っていたので、その権力の誇示というのがあるのかも知れません。しかし伴天連も貿易でその国に富をもたらすということで、国主に取り入ってもきたのです。そしてその地で宣教をしてきたのです。なかなかしたたかだといえます。

 ザビエルは、来日する前から貿易をして富を得ることは考えていたようですが、それは宣教や日本の教会を建てていくためには必要だと考えたのでしょう。そして後に伴天連たちはシナの教会を援助するほどになったようです。

投稿者: 日時: 2011年08月15日(月) 23:33