2011年06月のアーカイブ

厳しさも自然のままに

今年も例年のように六月に聖書月間と称するものを行いました。基本的には新来会者を対象とした礼拝ですが、教会に来られたことがない人々ということを考える時に、分かりやすい話をとキリスト者は考えるのですが、でも一般の人々と言うのは意外と難しいことを考えているように思います。キリスト教そのものについての知識は少ないでしょうが、そう単純ではない。見くびってはならないと思います。

 私が今面白いと思って読んでいる本は、岩波現代文庫のS164の「なぜ私だけが苦しむのか」という文庫本です。著者はユダヤ教のラビでクシュナーという人です。副題に「現代のヨブ記」という題がついています。それから推測がつくと思うのですが、人間の苦しみを取り上げている本で、神の正義が問われていると言えます。このクシュナーという人は、彼自身が自分の子どもを「早老症」で亡くしています。愛する子どもを亡くすという悲しみを経験する中で綴っているのです。ですから単なる論理上の話ではないのです。人はそこで問います「なぜ私が苦しむのか」、人は少々の苦痛でもその意味が分かれば背負って行けるものです。ですから問うのだろうと思うのですが、しかしなかなか答えられるものではない。

 私が聖書月間で与えられた課題は「老い」ということでた。それについて神学的な側面から調べて語らせていただいたのですが、明らかにその先には、死が考えられているのです。最近の私の死に対する感覚なのですが、以前は、特別な出来事として受け止めていた、そんな感覚があるのですが、今は自然な形と言いますか、人間の日常として捉えられているに思います。それは数多くの葬儀の司式をしてきたからということではなくて、人間が当然辿る道ということです。

 私は先の本は読み始めですので内容の深さに触れるようにして語れないのですが、著者が息子の死について触れているところがあるので、そこを先に読んでみよと思って見て印象深かったのは、ダビデが息子を失った時のことを語っている個所を引用しているところでした。
サムエル記下12章19節以下
「ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。『あの子は死んだのか。』彼らは答えた。『お亡くなりになりました。』。ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。家臣は尋ねた。『どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。』。彼は言った。『子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。』」

 クシュナーは言っています。「私は自己憐憫を克服して自分の息子の死を直視し、受容するところにきていたのです。」と。

 彼はこのようなことも言っています。「“なぜ私が苦しむのか”と神に問うのは無意味だ、答えは得られない。むしろ“こうなった、私は何をすべきか”と問うべきだ」とです。先にも書きましたように人間は意味を求めます。得られなければ自分で意味を与えていけばいいでしょう。でも、創造者なる神を信じるということは、よく言うことですが、人間は生まれた時から死に向かって生きていると、それを自然なこととして受け入れるということではないかと思います。

 「最上のわざ」という詩のなかにあるように、“おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事”というように、その厳しい現実も受け入れるべき現実としてあるのでしょう。日曜日に元気に来ておられた方が次の日曜日には危篤状態ですと聞かされました。そのように私の最期も来るのかも知れません。

投稿者: 日時: 22:05 |