選択

 レンゲ畑の風景です。家内の実家のそばの畑です。レンゲ畑は春の風物詩の一つと言えますが、最近はかなり減っているようです。レンゲは牛の肥料にもなるのですが、畑の肥料や雑草の防止のために栽培されます。8月~9月頃の稲刈り前に、水田の水を抜いて種をまき、翌年の春に花を咲かせるのです。化学肥料を使うようになって、レンゲ畑も見なくなったということのようです。

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 人は、なにかを選び取っていきます。あれかこれか、ということができます。その時の基準は何か、合理性と言うことなのかも知れません。レンゲ畑を見なくなってきたと言うのも人の選択の結果と言える側面があるのかも知れません。

 昔、イスラエルの国は、神によって必要に応じて立てられた士師という人たちに導かれていました。そういう意味では国家としての体裁は十分に整っていたとはいえません。そういう意味では隣国に比べて劣っていたと言えるでしょう。そこで民は、隣国のように強い国になりたいということで、神に対して王を立ててほしいと願いました。王制を求めたのです。これも人間の選択です。しかしその選択がどのような結果を自分たちに及ぼすのか、それを自ら負って行かなければなりません。その自覚を持たなければなりませんでした。

 王の権能について下記のように民に伝えられます。
「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」(サムエル記上8章)

 確かに国家として整い、強くはなりますが、王の権力は私生活の中まで入り込んできます。そして王を支えるために様々な犠牲をはらうことになります。それを担って行くことは自ら選んだ道ですから当然と言えるでしょう。しかし果たしてその選択は正しかったのだろうか。隣国の真似をしたのですが、イスラエルはイスラエルとしての独自の国の形があってもよかったのかも知れません。とにかくも神に「私を退けたのである」と言わしめることになりましたので、そういう意味では民の選択は誤ったと言わざるを得ません。

 しかし、神の選びとはそう単純ではありません。サムエルに神からの語りかけがあります。
サムエル記上9:16 「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」

 ここで「王 メレク」という言葉が使われないで「指導者 ナーギード」という言葉が使われています。文字どおりに「告知を受けた者」という意味で、王と区別して聖書は使っているように思います。8章で民が王を要求した時には「王」という言葉が使われていました。どうして区別をしているのか。王という職位は、神の任命がなければ存在しないということでしょう。王は神に選ばれ、油注がれて王とされるのです。

 民が求めた王ですが、しかしそれを神が選び立てて下さるということは、神は強い関心をもって王制に関わって下さるということです。そして王を導いてくださるのです。誤った選択ではあったかも知れませんが、それを受け止め、その中で神が深く関わって下さるのは、やはり恵みではないだろうか。神は自ら選んだ者を見捨てることはないのです。

 人生は選択の連続です。あれかこれか、時には誤ることもあるでしょう。しかし、その中で神は私たちに最善の道を備えて下さるのです。まさに「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8章28節)と言われる通りです。

投稿者: 日時: 2011年05月15日(日) 17:35