“気づき”ために

4月30日の土曜日に、現在、宝塚市立病院の緩和病棟でカウセラーとして働いている沼野尚美先生の講演会を私たちの教会を会場として、神戸ルーテル神学校後援会主催の集いとして行われました。個人的には、沼野先生とは神戸ルーテル聖書学院の時の同期だったので、たいへん懐かしい思いでお聞きしました。

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 様々なキリスト教系の病院でチャプレンとしても活躍してこられたのですが、ご本人いわく、一般病院でも働く事が最終目標ですというようなことを言われておられて、現在、まさに一般病院で働いておられるのです。公立の病院ですので、むろん、チャプレンという立場はないでしょうけれども、キリスト信仰をもっておられ、それをも踏まえてのお働きだろうと思いますと、貴重な存在だと思いました。

 この講演会で色々と考えさせられましたが、一つ、“気づく”ということで、一人の青年が、人から勧められてではなく、自ら気付いて、聖書の言葉に興味を持ち、それを心に蓄えて、信仰を持ち、感謝しつつ旅立って行かれたお話を聞きました。本人が気付くときに、スポンジが水を吸収するように、激しい勢いで御言葉が吸収されて行きます。そのように本人が気づいていく、そのところに先生が介在しておられた、説得ではなくて、本人が気付いた。“存在の意味”ということを考えさせられました。そのことのためには関係作りが大切だと思われます。

 最近、中学・高校の時の同級生が母校の教師をしていて、この度定年退職を迎え、そのお祝い会がありました。久しぶりの出会いでしたが、皆は私が牧師をしているのを知っていたわけですが、皆はそれぞれに“中島君が、牧師とは驚きだ”“考えられないなぁ…”などと言っていましたが、すこしお世話になった先生もおられて、“いや、分かるような気がする”というように言って下さった先生もおられるのですが。私が牧師をしていることを驚いている人たちは、“牧師とは語ることが仕事だ”と思っているからです。なにしろ私は本当に無口な人間でしたから、おどろいても当然でしょう。しかし、実際の牧師の働きの中で大切なのは、むろん、“語る”ということもあるのだが、“聞く”というこちとの方が働きのウエイトから言うと大きいと感じています。

 沼野先生のお話を聞きながら、青年に“聞きながら”“聞きながら”ことを勧めておられるように思いました。彼は沼野先生にどんな印象を持ったのだろう。“この人といると温かさを感じる”“このの人といると慰められる”“この人といると癒される”・・・・そんな印象を得たのではないだろうか。そこに“気づき”ということも生まれてきたようにも思えました。

 私たちはどのような印象を他者に与えているのだろうか、“この人と一緒にいると緊張するは”それとも“この人と一緒にいるとホッとするは”。

投稿者: 日時: 2011年05月03日(火) 15:35