人生を楽しく

 一年に一度のボウリング大会を今年も行いました。“東鳴尾ルーテル教会杯争奪戦”ということで10名の方々が参加をしました。ちなみに今回は大学Ⅰ年生の女性が優勝しました。当然と言えばおかしいかもしれませんが、ハンディーをつけてのことです。つけたハンディーは適当ですけれども、とにかく当然優勝する人が優勝しなかったのが良かったと言えます。そうでないと、誰でも優勝できる可能性がある、ということがなければ、参加していても面白みがないでしょう。そう、当たり前、常識が常に正しいとは限らないものです。

 ケームを楽しませてもらったのですが、それは本気で勝ちに行きましたから楽しかったといえます。ボウルを一回一回丁寧に細心の注意を払って投げました。しかしなかなか思うようなところには行ってくれません。でも、それが面白いのです。

 聖書も読んでいて人間の理屈ではどうしても理解できないところがあります。‘聖書’という‘ボウル’は変化球ですので、一球一球を細心の注意を払って、‘信じる’という細心の注意を払って読んでみると、その面白さが見えてくるのです。

 イエスがエルサレムの町に子ロバに乗って入城されようとしていた時の話です。下記は新約聖書のルカ福音書19章からの御言葉です。
「『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、‘なぜほどくのか’と尋ねたら、‘主がお入り用なのです’と言いなさい。』 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。」
 
 イエスの千里眼、超自然的な予知の力を示す出来事です。でも、今の人間は、どうしても科学的に、合理的に物事を考えようとします。ですから、これは必ずしもイエスの千里眼の証拠ではなく、イエスが弟子たちの知らない間に、予めてはずを整えていたのではないか、という考え方をします。それに、エルサレムならば、イエスはユダヤ人の一人として今まで何度も巡礼で来ているのです。ですからよく知った都です。その近辺の人たちも、イエスをよく知っていて、ベタニアの村には、マルタやマリア、そしてラザロという三兄弟の親しい弟子たちもいました。エルサレムの市内には、議員でありますニコデモとか、アリマタヤのヨセフという弟子もいたのです。ですから、他の弟子たちは気づかなかったけれども、イエスはちゃんとペトファゲ村の入り口に子ろばがいる、そして、その持ち主たちとも、ある時にチャンと打ち合わせができていた、こういうことではないかというわけです。

 エルサレムの町に入るのには、オリーブ山を登りまして、ケデロンの谷に今度は下りまして、そりからまた再び、エルサレムのある山を登らなければならないのです。その厳しい上りの入口のところにあるペトファゲという村などには、レンタルの自動車や自転車のように、“レンタルのロバをお使いください”という商売もあったかも知れません。そんなことを想像するわけです。それをイエスはご存じであった考える。なかなか面白いな、と思いますし、常識的に考えますと、そんな推測が生まれてくるのも自然なことかもしれません。しかしそれでは‘信仰’の世界の面白さが見えてきません。

 むしろ、これは素直にイエスの超自然的な予知の能力、先見の明が働いた出来事であると考えた方が、分かりやすいのではないかと思います。ルカは、一言を上記の箇所に書き入れています。その言葉「言われたとおりであった」という言葉です。ですからやっぱりルカは、イエスの千里眼に感動したのです。この一部始終は、本当にイエスが予め言われたとおりだったのだと、その感動を伝えたいという思いでこの一言を付け加えたのだと思います。

 このルカの感動が二千年の時を超えて私たちにも伝わってくるのです。この感動が常識を超えて伝わった時に、今の人生がもっと楽しく、面白くなるかも知れませんね。なぜなら、イエスが私たちのことをよく理解してくださっていることが、この出来事からわかるからです。いや、それだけではなくて、愛してくださっていることもわかってくるからです。

投稿者: 日時: 2010年04月01日(木) 23:34