救われる人、少ないの?

 先に妙見山に大学生たちと登ったことを書きました。山頂のお寺の施設で休憩したわけですが、そこに日蓮宗の新聞が置いてあったので、それを見ますと青年の集まりがあったようで、何百人と集まったとのことです。信徒数が何百万といるのだからそれぐらい集まっても当然と思うのですが、ことしはプロテスタント宣教150年、百数十万という信徒の数ですが、仏教の一宗派にも負けるような人数です。それこそ神様に問いたいような気がします。「救われる人は少ないのでしょうか」とです。

 人というのはそんなところで生きている、極めて俗的だと思います。数にとらわれます。なぜ数に囚われるのか。一つは評価、世の中の評価、それに囚われているのです。世の中は数で評価をします。

 イエスが町や村を巡り中ら旅をしている時に、ある人が「救われる人は少ないのでしょうか」と尋ねているのです。その時にイエスはなんと答えたかというと、“あなた自身はどうなのですか”と問い返しているのです。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と言われました。

 このイエスの答え「狭い戸口から入る」というのは、“あなた自身の問題として救いについて取り組みなさい”と言われているのです。そこでイエスは一つの譬え話をされます。

 ある家の主人が、一日の仕事を終えて戸締りをしました。すると戸口の外で「御主人、開けてください」と戸をたたく人がいるのです。主人は、もう遅いし、すべてが終わって寝ようとしているのですから、“どこのどなたか知りませんが、もう終わりました”と断ってしまうのです。こんな話をイエスはされました。

 お分かりでしょうか。外に立つ人が家の中に入れるのは、その家の主人の意向によるのです。外の人の意向によるのではないということです。誰を家の中に入れるのか、どのような人を入れるのか、いつ入れるのか、それを決める権限を持っているのは家の主人なのです。ですから外に立っている人は、その家の主人の意向に合わせなければならないのです。

 この家の主人というのはイエスのことです。外に立って戸をたたくというのは村人です。ですから村人は救われるためにはイエスに合わせなければならないのです。彼らは言います。“一緒に食事をしました”“広場で教えを受けました”とです。でもそのような上っ面だけの関係では駄目なのです。イエスの御心にそって、私たちのうちにある罪を認め、悔い改めなければならないのです。

 ルターは、宗教改革の口火を切ったと言われる“95カ条の提題”の第1条で、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ・・・』といったとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」と述べ、日々私たちが神の御心にそって歩むことの大切さを語っています。

 誰しもよい評価を得たいものです。認められたいものです。それは必要なことだと思いますし、他者に対しての関わり方を考えなければなりませんが、しかし、“自分”ということを考えるときには、神に認めていただく、それを第一の喜びとしていくことが肝心ではないかと思います。そこから始まると思うのです。

投稿者: 日時: 2009年08月26日(水) 16:14