根っこが見えてくる

聖書の言葉に、律法とは、「違犯を明らかにするために付け加えられたもので」あるというのがあります。それが存在しているがゆえに、何かが明らかにされ、それが存在しなければ隠れさ続けるということがあります。

私がよく通る道があります。「新川」沿いの道ですが、東鳴尾1丁目と池開町との境目の東西の道がうり、そこに信号があります。この道は余り車が通らないのですが、赤信号で私は止まります。でも、車が来ません。それなのにじっと立っています。その横を自転車が通り人が通ります。信号無視です。交通のルール違反を犯しています。車が来ないのだからいいだろう、ということでしょうか。信号があるばかりにルール違反を犯すことになります。なければ違反にはならない。
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 私もじっと青信号に変わるのを待って立っているのが、何か馬鹿な人間のように見えてくる。“車が来ないのだから行けばいいじゃない”、“何の問題もない”“形式的に考える必要はない”と思ってしまいますが、“それでも私は牧師ですし、保護司もしているし、それに1丁目自治会の副会長もしているのに、信号無視をしていては示しがつかない”などと思うんですね。律法という歯止めがあります。

 信号があるからこそ、それをめぐって人の罪性がそこにあからさまにされて行くのです。規則を破る、ちょっとぐらいなら、人が見ていなければ、皆がしているから構わない、そんな人間のいい加減さや罪性が暴かれて行くのです。何もなければそれらのことは隠されているのです。

 話は変わりますが、ホームページのメインページにありますように、私たちの教会でノートルダム清心学園理事長のSr.渡辺和子をお迎えしての講演会を持ちました。御自身の経験から語られた言葉は心の琴線に触れるものでした。そのお話の中で、米国で修練を受けている時のお話をしてくださいました。修練所にいるシスターたちの食事の準備をしていました。百何十人分かのお皿やフォークやナイフを並べていました。そこに人のシスターが来られて、彼女に言われたそうです。“あなたは時間を無駄にしている”と。はて? どういうことだろう。もっと早く並べろ、ということだろうか。

 そうではなくて、一つ一つのお皿を並べる時に、その席に座る方の幸せを祈りつつ、一つ一つのお皿を並べるのです。だからどうなの、ということになるのかも知れませんが、祈っても祈らなくてもお皿はお皿、その席に座った人が幸せになるのかならないのか、そんなことは分からない。祈ったからといってその保証はない。でも、“祈る”ということを通して、祈っているその人自身が、変えられて行きます。人としての豊かさが与えられていきます。優しさが与えられていきます。お皿を並べるという一つの行為を通して、人は分かれ道に立たされているのです。そう、先の信号の話でも、そこで人は分かれ道に立たされているのです。

 誰かの詩に次のようなものがありました。花は何によって支えられているのか、枝です。枝は何によって支えられているのか。幹です。幹は何によって支えられているのか。根です。根は見えねんだなぁ。というものです。根は見えるのです。それは幹によって、枝によって、花によって、その木の根がどういう根なのかが見えてくるのです。
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 Sr.渡辺和子という方は、本当に素敵な人でした。“キリストの香りを放つ”と言いますが、このような人のことを言うのかも知れません。さて、私たちはどんな香りを放っているのだろうか。もっともっと自分を深め、研きたいものです。

投稿者: 日時: 2011年10月09日(日) 08:37